since 2003
イレコナビ サイトマップ
< 日記 >
< 2015年01月 >
< 22日 >
2015年01月22日(木曜日)
不平等の正当的起源(宇田経済学の話の続き)

昨年12月に父にした話のメモを敷延して、以下に掲載します。
まだ、宇田経済学特有の話ではなく既存の経済学の話にしか成っていないかもしれません。
あまり推敲せずに、とりあえずアップしておきます。

全ての人が互いに他を可能な限り馬鹿にしている状態が競争のスタートラインだ。
今やっている仕事を馬鹿にされた時に、そんな風に言うんだったらもうしない、という反応をする事は当然だが、それなら何もせずに済むかと言うと、最低限しなければいけない事はある。
そうやって最低限しなければいけない事のしたく無さの小ささをフェアに競う、という考え方が自由競争経済の原理の正当的解釈だ。

それに逆行する選択を自分から進んでするのは場合によっては徳であるが、そうする事によって他の人にもそうしろと要求することは侵略であり、そんな事を言うんだったら逆行する選択を自分から進んでしてもらわなくて結構だ。
金銭貸借の貸手責任の原則に似ている。

ギャンブルは当たる事に賭ける物だが、危険手当で稼ぐ就労は当たらない事に賭ける物だ。

当たる危険に身を曝してもよいと思うことは、当たらなかったら丸儲けという前提があって初めて出来る事だ。
当たらなかった結果を見てタッチアップで過払いだと主張し始めるのは不当。
危険でない通常経済の仕事でも、ぼろ勝ちしたら億万長者に成れるという前提があって初めて最下位に成る危険に身を曝す気に成る事が出来るのであり、頑張らないと最下位に成るぞと言って脅し拍車を掛けておきながら芽が出ると摘むというのでは納得は得られない。

最下位で脅し芽を摘むへの反対が、私の、実力フル発揮が許されないなら生んでくれるな、という言葉だ。

他人を馬鹿にしているという前提を置くのが正しい事は、その方が人間の本当の姿に近いからだ。
馬鹿にするしないの違いは無く、隠す隠さないの違いがあるのみだ、というのが現実に近い。
馬鹿にしている事を正直に打ち明け、当然の事ですよね、だから責められる事ではありませんよね、という態度を取る事には、次の危険を避ける作用もある。
もし本心を隠して、私は誰も馬鹿にしていません、あなたの事も尊敬しています、と嘘を突き通す方針を取ったならば、ふと気が緩んで本心の証拠を誰かに取られてしまう瞬間があるかもしれない。
さらに、その証拠を他の人に見せて、こいつは本当はこういうやつなんだ、という風に告げ口されるかもしれない。
これは危険だ。
これに比して正直は安全だ。

互いに馬鹿にしあう、というのはボクシングの試合の前に見られる。
これに対して、勝って見返してやる、という動機が生じ、これが競争の原動力と成る。
したくなさよりも主には見返しを競う。
だから自由競争は必要なんだ。
誰も馬鹿になんてしてませんよ、この仕事も尊敬されてますよ、馬鹿にせずやりなさい、という言い付けに従う事が強制されるのは、陰でこそこそ馬鹿にされる事に対しての無防備の強要である。
そしてそれが狙いに決まっている。

他の人がやる気を無くすから、とか、志気に関わる、という理由で行為を抑制したり強制したりする事は、物の道理がイロハから分かって無い態度だ、という事の説明に前件までが成っていよう。
馬鹿にされてやる気を無くした所がスタートなのである。

それで経済が沈滞するなら、それが自由経済の真の実力なのだ。

他者は自分を出来るだけ馬鹿にしているんだ、という前提で行動しないと、精神的に脆い。
出来るだけ馬鹿にしようとしている人でもこれには劣等感を感じるだろう、という事の積み重ねで行動すれば、揺るがない。

賭博方式は危険職特別扱いへの代案。
互いに馬鹿にされる地位をフェアな競争で押し付け合うのが当然と言っても、死んだり大怪我をしたりする危険のある仕事だけは別であり、徴兵は必要人数の問題ではなく公平性から出て来る、というのが従来の考え方だろう。
賭博方式では、危険負担者も恩着せがましい事は言えなくなる。