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2013年12月21日(土曜日)
退屈である事と馬鹿にされる事を超える不幸

2013年12月01日の記事の続きです。

退屈である事と馬鹿にされる事を超える不幸としては、極度の残酷が直ぐに思い浮かぶが、小さなものまで含めて実害を受ける事は全て、退屈である事と馬鹿にされる事を超える不幸である。
これは、
2012年07月22日の記事では迷っていた「相手を劣化させたり抑え付けたりする事がいけないのであって、侮辱がいけないのではないかも」という問題に対して、そうだ、という答えを私が出した、という事です。

実害の中でも特に論理の機微に触れる例として、退屈や馬鹿にされる事を自力で解決しようとする努力を妨害される事、という実害を取り上げる事によって、退屈である事と馬鹿にされる事が不幸の上限である、という水準への誤解を防ぐ事が出来る。

誤解というのは、妨害した上で馬鹿にし、それを相手が非難すると、その非難を、馬鹿にした事への非難だ、として非難する態度です。

退屈や馬鹿にされる事を自力で解決しようとする努力を妨害される事は、退屈である事と馬鹿にされる事を超える不幸である。
したっがって、退屈や馬鹿にされる事を自力で解決しようとする努力への妨害は、社会全体に正義が貫かれみんながほんの少しの積極性を維持していさえすれば、統計力学の法則と同じぐらいに確実に、どこにも存在しないはずである。

退屈を自力で解決する、とは、自分で面白い事を考え出す、という事だ。
馬鹿にされる事を自力で解決する、とは、自分を馬鹿にする人に、馬鹿にしない様に依頼したり強制したりせず、自分の状態を馬鹿にされ難い状態に維持したり変更したりしようと自分で努力する事です。

例えば、職業選択について言うと、能力が足りなくても就きたい仕事に就ける、という事はもちろん無いが、志望理由として、その仕事が馬鹿にされ難いから、という事を理由としていても、それはけしからん(非難に値する)、という事には全くならない、という事です。

馬鹿にされ易い仕事を避ける事の正当性は、やっている仕事を馬鹿にされて、そんなに馬鹿にするんならもうやめる、といって辞める態度が全く非難の対象ではない事を考えれば、うなずける。
就いた後で辞める代わりに最初から就かない、という事だ。

その仕事を馬鹿にされ難いから選ぶ、という態度は、その人が他の仕事を馬鹿にしている、という事を論理的には意味しません。
周りの人が他の仕事を馬鹿にしている、という風にその人が思っている、という事を意味するだけです。
そして、実際には、それは妄想ではなく、無理からぬ事であり、世間における馬鹿にする意識というものは、宇宙における3Kの背景輻射のごとくです。

非難には値しないが、そういう態度は馬鹿にされる、という傾向も有るので、馬鹿にされないようにする事をある程度以上追及すると、馬鹿にされない様にしたら馬鹿にされる、という限界もあります。
この欠点は、お前は寂しい奴じゃのう、という侮辱表現の、主な適用対象の一つでしょう。