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2013年12月01日(日曜日) | ||||||||||
正義は不幸や残酷に直接の制限を設けない | ||||||||||
正義は結果に下限を設けない。 結果に下限を設ける規則は、単に「するなよ」と言うだけの物に成ってしまい、その規則を守らせるための実力を否定してしまうからだ。 その事は、例えば人間の盾という犯罪手法を思い出せば分かるし、また、私は死刑さえ無ければ殺人します、という態度の人には死刑以外の方法では対処できない、という事を考えても分かる。 そんな人は居ない、と言うかもしれないが、もし居たらそういう人に対してはどうするのか、を考えておく必要が有るのは、泥棒を見た事が無い人もドアに鍵ぐらいは付けるのと同様だ。 それに、実際には居る。 結果に下限を設けない、という事は、正義は、どんな残酷をも、それ自体としては、何時如何なる時にも否定する、という物ではない、という事だ。 つまり、底無しである。 だから私は正義が怖い。 とても怖い。 怖いから、正義に従おうとするのだ。 正義が我々に突き付ける要求の中で我々に最も大きな試練を与えるのは、悪の言いなりに成るな、悪に対して出来るだけ抵抗しろ、という要求だろう。 この要求は、言い換えるなら、脅迫されての犯罪でも、回避出来たのに回避しなかった場合は、正義はこれを許さない、という物だ。 私はこの要求に従う様に心掛けているが、それは、正義は悪よりも怖いからだ。 正義が何を肯定しようが何を否定しようが、それは実際にそう成る事とは別だ。 しかし、自分に対する行為の中で自分にとって耐え難い行為が正義によって肯定されている、という状態が、ある時点から先ずっと続く、という事は、とても恐ろしい事であるはずだ。 実際にはそう成らない、という事に頼って注意深く悪行を積み重ねる事は、ゴムの一端を口に咥えて他端を手で顔から際限無く引き離そうとするのに似た愚行である。 ゴムが切れて痛い思いをするのは単なる時間の問題だからだ。 その時間を非常に長くする事は出来るかもしれないが、無限大には出来ない。 そして、その痛みは、長期間逃げ果せていればいるほど大きい。 正義は結果に下限を設けないが、皆が、物事の順序を守り、ほんの少しだけの積極性を維持しさえすれば、統計力学の法則ぐらいに確実に残酷は回避される。 必死で働く必要なんてハッタリは非常に悪質だ、と私は前々から思っている。 この様な悪質なハッタリは、他人に自分を馬鹿にさせない事を物事の順序に違反してまで誰かが追求した事によって生じた、と考えられ、その様な行為は私の子供の頃からの一貫した批判対象だ。 そうして、最大の不幸は退屈である事と馬鹿にされる事だ、と表現される様な状態に社会は落ち着く。 これは、退屈である事と馬鹿にされる事が甚だしい不幸だ、という意味ではなく、退屈である事と馬鹿にされる事という大して不幸でも何でもない些細な不快、を超える本当の残酷が生じない安全で安心な社会を意味している。 安全・安心と人が馬鹿にされる事は論理的にセットであるだろう、と私は直感している。 その意味、安全・安心な社会を声高に叫ぶ勢力が敵対勢力を「お前は失礼だ」という言葉で批判して駆逐しようとする傾向を強く持っている事は、その勢力の思想の非一貫性の露呈と見なされよう。 日本国憲法に謳われている健康で文化的な最低限度の生活を営む権利という物は、不幸に制限を設ける考えであり、本件の序盤は、その事に起因するセキュリティーホールの存在証明、みたいな物だ。 実際、不正受給という、その点を突いた犯罪が蔓延しているそうだ。 |
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