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2013年12月03日(火曜日)
順序観と許容量

個人の属性の中で、正義の問題に関わって来るのは、能力と性質だ。
優劣は能力を評価するための概念であり、善悪は性質を評価するための概念である。

誰かが形式的な規則に違反した時に、その人を責める事が出来るか否かは、その人の能力によって変わる、と私は考える。
時々耳にする責任能力とは、その事だろう。
つまり、努力しても規則を守る事が能力的に無理だった場合には責めを負わない、という事だ。
もっともな事だと思う。
出来ない事をする義務が有ってはいけない。
「出来なくてもしなければいけないんだ」という発言を聞いた事があるが、それは無理だ。
無過失責任という物もあるらしいが、これは道徳的な呵責ではないだろう。

許容量は能力に属する。
許容量は、受動的にはタフさ(苦に対する良い意味での鈍感さ)、寛容さ(損に対する良い意味での鈍感さ)と、能動的には外界に働き掛けて苦や損を除去したり苦や損の発生を未然に防ぐ能力、これらと心のヤリクリの能力から構成されているだろう。

許容量の概念は、コンデンサーと呼ばれる電子部品の容量や、工業製品の定格許容電圧等をヒントに考え出しました。

許容量が大きい人は許容量が小さい人よりも多く負担しなければいけない、という規則を置く事は、
個人の基礎的な分限の侵害である。
だから、許容量を超えてしまう場合以外については、譲歩量の合計は義務で語るべきであり、能力で語るべきではない。
つまり、義務として定められた値より小さい値を譲歩量の合計の上限として行動していれば違反であるが、能力的にもっと譲歩出来るのにしていない事をもって違反とする事は不当である。
譲歩とは、例えば法律用語で「当然甘受すべき不利益」と呼ばれる不利益を甘受する事である。

私は、譲歩義務は譲歩量の合計の上限をある値以上にする義務として存在している、と考える。
これは、個々の譲歩量の上限をある値以上にする義務を課すれば十分だとする考えは間違いだ、という意味である。
個々の譲歩量の上限をある値以上にする義務を課するだけの考えは、悪意を持った者がターゲットに任意に多数回譲歩させてトータルで義務以上に譲歩させるどころかターゲットの許容量を全て食い潰してパンクさせ破綻に追い込む事、を否定しないからだ。
ターゲットを破滅に追いやる嫌がらせ行為は、そういう原理で運用され、個々の譲歩量の上限をある値以上にする義務を課するだけの考えを御用屁理屈として採用しているので、この点は肝心である。

そんなにキチンと定式化しなくても、誰もそういう嫌がらせを正しいなんて思ってやしないよ、と言われるかもしれないが、そういう嫌がらせをする連中が完膚無きまでに言い負かされずに存在し続けている事が、私には我慢ならない。

私は、人の善悪とは、その人が持っている順序観に対して付与される評価だ、という風に考える。
例えば、自己犠牲的と評される態度は道徳的に高く評価されるが、これは、他人の利益を自分の利益よりも重んじる、という順序観だ、と言える。
正義観とは順序観の事だ、というのが私の洞察だ。

正しい順序観に従って行動し、譲歩量の合計の上限として義務値か義務値以上の値を採用して行動しているならば、どこからどう突かれても、自分が罪人として責められる事は無い、というのが、正しい法律の満たすべき条件である事は、明らかであろう。

したがって、性質が良くて才能もある人が、イソップ童話のウサギとカメを教訓にして、自分はウサギであるけれども決して途中で昼寝はしないぞ、と心に決めて終始一貫努力するならば、自然な不確実さの意味以外では、その人の人生は良い事ばっかりである事が最初から決まっていて、そうでない人がそれを、妬んで邪魔しようとしても、正当裡に邪魔する方法は皆無である。