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2013年12月04日(水曜日)
人の最大許容量について

コンデンサーに最大許容電圧を超える電圧を掛けてコンデンサーが破裂し周囲に内部の液体が飛び散った場合、その液体を浴びた人は損害賠償をコンデンサーに請求するのではなく電圧を掛けた人に請求するのが正しい事は、当然である。
コンデンサーは、単に損害賠償の責任を負わないだけでなく、破壊された事に対する損害賠償を電圧を掛けた人に請求する立場にある。
もちろん、人は自由意志を持つ点でコンデンサーとは異なるが、最大許容量を超えた負担を押し付ける事は意思決定の自由を奪う事だ、と言える。
これは、防衛目的の攻撃や報復や八つ当たりや債務不履行の弁護に、理論的な基礎を与えるだろう。

今ウェブで調べてみたら、最大定格電圧とか最大許容電圧という言葉があった。
昨日の記事で私は、タイトルに「最大」を付けるのを忘れていた。

また昨日の記事では、許容する能力として肉体的な能力への言及が不足していた、様に感じる。
ヤリクリについては、精神的および肉体的なヤリクリ、とすべきだった。
タフさについても、苦に対する良い意味での鈍感さだけでなく、精神的および肉体的な疲労し難さ、活力の衰え難さ、回復の早さ、壊れ難さ、という物を含める必要が有ろう。
また、外部に存在する苦や損の原因を除去する事は、許容量という言葉には馴染まない気もする。
対処力という言葉の方がピッタリかも。
まあ、しかし、順序観とペアーにして道徳特性の完全な組を作る、という路線は正しいはずなので、単一の上手い言葉が見付からなくても、概念としては1つだ。
明細は、後でキチンと考え直してみたい、と思う。

昨日の記事で私は、責任能力を広く解釈しているが、刑事犯罪では普通は心身耗弱とか心神喪失でもない限りは、責任能力が無かったから無罪、という事には成らない、という現状は知っている。
私が言いたい事の1つは、それではいけない、という事だ。

2012年公開のアメリカ映画「リンカーン」の議会でのシーンに、怒らせて本音を言わせる、という手法が出て来るが、怒りによって言葉に歯止めが利かなく成った時に言った事は本音だ、とは限らない。
そういう時には言い間違う傾向も冷静時よりも増加するし、敵を出来るだけ悪く言おうとするあまり思っている事の中からではなく知っている言葉の中から最も侮辱度の高い言葉を選びがちだからだ。
そして、それがコンデンサーの破裂に相当する場合には失言も呵責されてはいけないし、特に、失言させるために最大許容電圧を超える電圧を掛けた者が居る場合には、失言によって生じた損害はすべてその者の責任であるのに加えて、失言した人はその者を呵責する側に属する。

昨日の記事の結論をまとめると、正しい順序観に従いかつ譲歩量の合計の上限を義務値か義務値以上に保って行動している限りにおいては、その人は、人を殺そうが物を盗もうが放火しようが、その事で処罰を受けてはいけない、という事だ。
その場合の殺人や窃盗や放火を悪い事ですかと尋ねられると、「悪い」という言葉に引っ掛かって返答に窮するが、処罰されてはいけない、という事は少なくとも確かだ。
そして、それでは世の中は成り立たないという反論は悪質なフッカケのハッタリだ、というのが私の主張である。
世の中が成り立たないのは、正しい順序観に従いかつ譲歩量の合計の上限を義務値か義務値以上に保って行動しない人が居るからだ。
その人を罰する事で置き換えるのが正しい。
また、そうしない事は、処罰されてはいけない人を処罰させる犯罪の温床となり、その方が世の中が成り立たない。
上記の悪質なフッカケを吐く者は、その本来処罰されるべき真犯人の共犯者と見なされるべきである。

すし詰め状態の集会で将棋倒しが起きて人が圧死した場合、その死んだ人に直接接して圧した人が処罰を受けるなんて馬鹿な話は無い。

この私の意見は、一言で言うと、無条件生殺与奪権の否定である。
無条件生殺与奪権なんて、わざわざ私が否定しなくても、誰もが、有ってはいけない、有るわけない、聞いた事も無い、と思うでしょう。
しかし私は、意訳すると「これが無いなんてどうしても許せない」という反応を示す糞の様な人々を何度も見た事がある。
だから、言わずには居られないのだ。