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2013年06月30日(日曜日)
我が家にも角田美代子事件の匂い

母が浴室(1階)の北窓サッシの鍵を除去している。
  
母は妄想を装って有りそうにない現象の害を防ぐためだ、と言っているが、本当は、外部者に侵入の便を図るのが目的だ、と思われる。
また、母屋の北に、私が子供の頃には無かった、風雨を防ぐ透明波板が設置されているが、これは、北窓からの侵入を遠方から見え難くする。

母が便所(1階)の北窓サッシの鍵を除去している。
  

おそらく、台所(1階)の北窓サッシの鍵も除去されている。
これは、今は、冷蔵庫の陰に成っていて、室内からでは見えない。
後で屋外から確認してみよう、と思う。

便所の照明スイッチのネジが片方外されている。
  
2011年末の便所の改装以前には、ちゃんとネジが2つ付いていた。
改装の際に故意に外したままにされた、と考えられる。
廊下を挟んでこの戸の反対側に、母の部屋の戸がある。
ただし、母の部屋は、もともと個室ではないので、出入り出来る箇所は1つではない。

母のプレハブの窓ガラスが割れている。
  

角田美代子事件がワイドショーで盛んに取り上げられていた頃、私が父にその話をすると、父は、事件の実態があまりに酷い事に対する不快感と腹立ち、を一瞬露わにしながらそれを表現する言葉を破裂音風に一言つぶやいた後で、居間の南窓のカーテンの隙間をしゃくる様に閉めた。
まるで、その隙間からこちらを覗き見る事が出来る位置に、その不快感と腹立ちの対象が潜んでいるかの様だった。
また、父の様子は、これまでそれらの人を善意の人だと思っていたがテレビで情報を得て初めて正体がこんなに凶悪な者だったのかという風に驚いた、という風に見えた。

その隙間からこちらを覗き見る事が出来る位置、というのは、我が家の南方であり、隙間はカーテンの上の端、天井に近い位置だったので、それよりも上の方であるかの様に感じた。
つまり、南上方らしかった。

また、父がごく希に口を滑らせて犯人の事を指し示す時の、無意識のジャスチャーは、いつも南方を指し示すものだった。
「みんな」と言ったり、三人称を表す別の指示代名詞を使った瞬間に、何か持ったままの手で無意識に南方を指し示していた。

父が「みんな」という言葉を使ったのは「だからお前はみんなに幼稚だと言われるんだ」という風に私を侮辱した瞬間だった。
「お前は自分の周りがどう成っているか分かってるのか」と言った時だったかもしれない。
これについては父は、この発言の直後に、作為の匂いのしない明白な無意識的反射的発語として「しまった」という後悔の言葉を発し、私に対する不正行為の動機の存在の証拠を、二重に呈したのだった。

三人称を使ったのは、その人(達)はお金を(たくさん)持っているのでその人(達)に対抗するのは難しい、という意味の事を父が反射的に述べた時だった。

この様な、ハッキリと異様で不審な一言に出会う事は、父の発言に限らなくても非常に希であり、数年に1件ぐらいだが、それでも私は今までに確かに、聴覚や言語認識の異常という解釈は絶対に成立し得ない形で、そういう発言に繰り返し出会って来た。
犯人が必ずそういうドジを踏む、という保証は無いし、被害者が皆私の様にしっかりしているわけでもないので、犯人連を撲滅するチャンスは、どんなものでも逃してはいけない、と思う。
一度チャンスを逃すと、もう二度とチャンスはやって来ないかもしれない。
犯人連も学習するからだ。

お金をたくさん持ってそれを悪用する者からはお金を没収すべきだ。
お金と言うと、何となく連想するのは■本鋼管だが、私の周りをうろつく自動車のパターンの中に、車体に■本財団と書かれた自動車が有る。

ロード自転車走行中には、最近では違うが、車体に■山市水道局と書かれた自動車が私の周りをうろつく事が多かった時期もあった。
2013年06月25日の記事の、水道水の出しっ放しの件と関係があったのだろうか?

母屋の居間で母と談話した際に、私が、犯人連の事を「肥溜めの糞」と表現した瞬間に、母にとってあまりに刺激の強過ぎる言葉だったのだろう、母は、まるで自分が地獄に突き落とされでもしたかのような驚きの反応を呈しながら、はじかれた様に顔を南方に向けてそちらを見た。
明らかに、それは、母が顔を向けた方に肥溜めの糞と言われた人が居る場合の仕草だった。

学生時代、父が仰向けに寝て、その上を妹にカカトで踏ませていた、のを見て、止める様に忠告したが聞き入れられなかった、という事があった。
角田美代子事件では、娘に父を攻撃させる、という手口が用いられた、と聞く。
被害者に、胸部への打撃による致命傷というのがあったが、原因はこれではないか?

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以下に
2013年06月28日の記事に対する補足説明を書きます。

人を人とも思わない傍若無人な態度、という風に思われてしまう事がある態度を私が自覚的に取るのは、ルール上は正道中の正道、ど真ん中だが、否認される事が懸念される領域に突入した際である。
この事は、当たり屋が出る事が懸念される場所を通過する時には、出る前から、当たり屋が出てそれに対して腹を立てて不機嫌に成った後の態度を取るのも無理からぬ事だ、という道理との類推で理解すると分かり易い。

自分が幸福に成る、自分が自由に成る、に加えて、自分が楽をする、という表現も、書いておくべきでした。