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2013年02月08日(金曜日)
止めど無き、疑わしきは罰せず
加害行為について、その有罪か無罪かの判定や量刑の決定に対して、疑わしきは罰せずの原則を適用すると、その加害行為を防御目的の攻撃や報復や八つ当たりとする様な先行する脅威、が存在しなかった事を証明する必要があり、そのためには、その様な脅威の存在を証明できなかった、というだけでは全く不十分である。

どうしてそう成るかと言うと、疑わしきは罰せずの原則によれば、AされもしないのにBした事、に相当する刑を被告に課すためには、被告がAされもしないのにBした事、を立証する必要があり、これは、被告がAされなかった事の立証を必要とするからだ。
この立証は一般に非常に困難である。
不可能に近いぐらい困難である。

それが如何に困難であるかは、
裁判では有罪性の立証のみが目指され潔白性の立証は最初から断念されている事、を考えれば分かる。
数学の証明問題でも、存在しない事の証明は、存在する事の証明よりも、難しいのが普通だ。
一般に、無い事の立証は有る事の立証よりも困難である。
無い事の立証は一つでも考え落としがあれば崩壊する、からだ。
逆に、有る事の立証は一つでも見付ければ揺るぎ無く成立する。

以上の知見を踏まえれば、まずターゲットに嫌がらせをし、それに反応してターゲットが他者に加害した所を捉えて、嫌がらせの存在をしらばくれつつそれを糾弾し、ターゲットを精神病院なり刑務所なりにブチ込む、という手法は、正当裡に成立しないだけでなく、現行制度に沿って実行可能ですらないのだ。

本件は私の見解であって、正当的な法解釈と一致するか否かは、知りません。
しかし、マツダ無差別殺傷事件の裁判についての報道を見た時には、「Aされた」の部分が、そういう事実は確認できなかった、という理由だけで反証されたものと見なされ、AされもしないのにBした事に相当する量刑が言い渡される方向に議事が進行している様に見え、法律の運用の実態はまだ私の見解に一致するレベルには達していないみたいだ、と感じた。