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2024年11月23日(土曜日) | ||||||||||
言葉の暴力と言うなら、まず膠原反応が出る発言を | ||||||||||
とりあえずページ設置のみ。 「言葉の暴力」という言葉が登場する前から私は、たとえ発言であってもこういうのは暴力に相当する、と思っていた物が有る。 それは、聞いて意味が分かる事によって、神経痛が出たり、脳内に怪我が生じた様な感覚を覚える発言です。 その様子を的確に表現する言葉を思い付けなかったために、そういう発言を聞いた時に私は、毎回黙っていました。 そのせいで、何事も無かった事にされていると思います。 IT機器にダメージを負わせる不正を行なっても、IT機器は全く音を出さずに壊れるのに似ています。 肝心なのは、そういう本当の意味での言葉の暴力は、悲しい事を言われる、といった事ではない、という点です。 おそらく「間違った事を言われる」という要素が入っているのだと思う。 随分昔の話に成るが、極真空手の中村誠という人が、飲食店で暴力をふるって、その事の評価が「暴力を振るったんだから、お前が悪いんだ」という風に成っている、という話が有ります。 これについて直接では無かったかもしれないけど私は、学生時代に友人から質問されて「馬鹿にされた事に対して暴力を振るうのは間違っている」という答えを一般法則として言った事が有ります。 ひょっとしてこの私の発言が色々な人を困らせてしまったのではないか、と心配しています。 この私の発言と中村誠さんの傷害事件を一緒に思い出す事が時々あり、その累積回数は多い。 一般法則としては馬鹿にされた事に対して暴力を振るうのは間違っている、と答えた当時でも私は、中村誠さんが間違った事をしたのではないだろう、と思っていました。 しかし、それじゃあどういう言葉で説明すればよいのか、それが分からなかったので、早く言ってあげなくちゃいけないと思いながらも、ずっと黙っていました。 中村誠さんに暴行された人が直前に中村誠さんを馬鹿にした、というのも本当でしょう。 しかし、それじゃあ、中村誠さんは馬鹿にされたから暴力を振るったのか、と言うと、違うんじゃないかなあ。 馬鹿にされたからじゃなくて、間違った事を言われたからだろう、多分。 こういう言葉の誤魔化しが横行している。 例えば、「自動車で追い越された事に腹を立て・・・」という言い方が使われた場合、本当は追い越し方に腹を立て、その腹を立てた事は全く正当であるのに、その事を歪めて言っている場合が有ります。 ところが、「追い越された事に腹を立て」と言われた人は、「だって追い越された時に腹を立てたじゃないか」と言われれば反論できなく成ってしまうのが普通です。 自分の方が正しくても、その正当性を言葉で的確に表現するのは難しいものです。 普通は出来ない。 出来るとは限らないから、「反論できないならお前が間違ってるんだ」という意見は間違っているのです。 また、言葉で説明できないなら的確な判断をしていない、という意見も間違いです。 中村誠さんの件では、中村誠さんが実際に持っている実力とは違う評価を言うという意味で「お前は弱いんだ」と言われたなどの可能性が考えられる。 屋外では雨が降っていて自分はそれを目の当たりにしているのに「晴れです」と言われれば、雨の振っているところに連れて行って濡れてもらおう、そして「これでも晴れですか?」ともう一度きいてみよう、と考えるのは当然である。 そうではあっても、言葉で間違った事を言われただけだから、無視して我慢する事は出来るには出来る。 しかし、出来るか否かと義務が有るか否かは別です。 また、同じ間違った事を言うという行為でも、本当にそう思って言ったのか、思っていない事を言ったのかによって、罪の重さは違います。 同じ事を言われても、どちらなのかによって、膠原反応が出るか否かが変わります。 それは、相手の意図という物も非言語的に伝わって来るからです。 空手の試合で対戦をするのが得意な中村誠さんなら、相手の意図は手に取る様に分かるはずです。 たとえ「お前は本当は弱いんだ」と言われたとしても、言った人が本当にそう思って言ったのなら、中村誠さんは笑って許したのではないでしょうか。 それに対して、例えば「お前が試合で勝ったのは八百長をしたからだ」という発言は、そうは行きません。 中村誠さんは、膠原反応が出る様な間違った事を言われたのではないか、そして、それを言った人は中村誠さんを怒らせるために故意に思っていない事を言ったのではないか、怒らせようとしたのは暴力を振るわせてその事を責めるためにではないか、という風に私は疑うわけです。 話を元に戻しますが、膠原病に成る過程で出る心身の反応を膠原反応と呼ぶ事にしたい。 言われた人の心身に膠原反応が出る様な発言、これが言葉の暴力の筆頭である。 本当に病気にかかっている人が「お前は病人だ」と言われても膠原反応は生じないが、病気ではない人が「お前の言ってる事は精神病の被害妄想だ」と言われると膠原反応が生じるのである。 私は、テレビで出演者が「妄想」という言葉を発するのを聞くと神経痛が出る。 言葉で膠原反応が生じるのを間近で見た事が私には有る。 屋外で数人で立ち話をしていた時に、そこで何だったかガスライティングが行なわれ、それに対して私が自分の意見を言うと、それを聞いた人が脳に膠原反応が出たらしい顔表情を見せた。 これは、食品の咀嚼中に混入していた異物を噛んで気付いた瞬間の様な表情が、似ていると言えよう。 私に対して、「元に戻らなくなったじゃないか、どうしてくれるんだ」といった非言語表現も有った様に記憶している。 「元に戻らない」という概念は、「アゴが外れる」とか「筋肉がつる」という現象で説明するのが良さそうな事です。 他人の話を聞き続けるという事だけによってでも、それが脳内に起こる、というのが私にとっては経験実感として非常に良く分かります。 その時に私が言った意見はガスライティングに抗する意見だったけれども、私自身が疲れるなどの無理をしないようにするために私の説明は十分に丁寧ではありませんでした。 その私の発言は、聞いた人に膠原反応が出る様に狙っての発言ではありませんでしたが、私の発言のその丁寧ではないという特長によって、その人の脳に膠原反応が出たらしい事は、私自身実感として「そうだろうなあ」と納得できました。 私は、それ以上丁寧に発言すると自分の脳に膠原反応が出る、というギリギリの状態でした。 私の発言を聞いて膠原反応が出た人は、ガスライティングの犯人だったか、被害者だったか、どちらでもなかったか、覚えていません。 どちらでもない人だった様な気がします。 性別は女でした。 なぜなら、犯人だったなら、その事を私は今までずっと心残りに思い続ける事は無かっただろうから。 ところが、近頃の世相だと、間違った事を言ってるからという理由なしで、膠原反応を生じない発言を「言葉の暴力」という概念で糾弾する傾向が強まっている。 膠原反応を生じる発言を平気でする人々が、そういう事をしている。 それだけではない、どうしてそういう事をするかと言うと、馬鹿にされたからするみたいなのだ。 つまり、馬鹿にされただけで暴力を振るう者達が、その事を、馬鹿にされただけでは暴力を振るわない相手が馬鹿にされた事を理由に暴力を振るったから暴力で対抗したんだ、という風に捻じ曲げて主張する構図が見られる、という事です。 「オレは天才だからルールが同じでも、する選択も出る結果もお前らとは雲泥の差が有るんだ、うるせえ」と言われても膠原反応は生じないのである。 「黒人のブタ野郎」と言われても「白人のブタ野郎」と言われても「黄色人種の猿め」と言われても膠原反応は生じないのである。 膠原反応が出る発言という物を説明したり研究したりするには、具体例が非常に重要です。 ところが、具体例を挙げろと言われても、なかなか思い出せないものです。 ひとつ覚えているので、ここに書いておきます。
それでは、中村誠さんに殴られたか蹴られたかした真犯人を、中村誠さんは馬鹿にしたのでしょうか。 多分、違うと思うんです。 中村誠さんが自分をどう思ってるか、他人をどう思ってるか、そういう思ってる事を「馬鹿にしてる」「馬鹿にした」という言葉で表現したんだと思う。 中村誠さんが真犯人を馬鹿にする発言や行為をしたのではないだろう。 従がって、心の中で馬鹿にしてるというのは、真犯人によって確認されていないだろう。 究極的には、それは私にも分からない事です。 私が思ってる以上に中村誠さんは謙虚な人だ、という事は可能性としては認めなければいけない。 中村誠さんが武勇伝を語っていた、という事は有り得るが、それが馬鹿にした事に成るのか? 「馬鹿にする」という言葉の意味にもよるが、それを馬鹿にしたと言うんだったら、馬鹿にされたからと言って膠原反応の出る発言で攻撃してはいけないし、馬鹿にされたら常に膠原反応の出る発言で反撃してもよいと言うのなら、武勇伝を語る事は馬鹿にした事には当たらない。 発言や行為で馬鹿にされたわけでもない、心の中で馬鹿にしてるのを見たわけでもないのに、「馬鹿にしやがって」という苦情をぶつけて来る者が居るなんて、どうして、そんな事が宇田には分かるのか? それは、私に向かってそういう態度を取る人が多いからです。 私自身が嫌と言うほど経験して来た事だからです。 「なめるなよ」「馬鹿にするなよ」「馬鹿にしてはいけない」「なめたらあかん」という言葉が、それです。 昭和の時代に「なめるなよ」でおなじみの「なめねこ」というマスコットが有りました。 最近では飴のテレビ・コマーシャルが「なめたらあっかーん」を連呼して来ます。 友人から直接「馬鹿にちゅるなよ」と言われた事も有る。 良く見ると、「お前は馬鹿にした」とは書いてない。 「馬鹿にしてはいけない」という一般法則を言ってるだけです。 その事を見切れば、「ええ、そうですけど、それがどうかしましたか」という風に言い返す事も頭に浮かびます。 しかし、「馬鹿にしてはいけない」というのは、果たして本当でしょうか。 何事も馬鹿にしていては上達しない、という意味なら、本当でしょう。 しかし、道徳律として言うなら、馬鹿にするぐらい良いじゃないか、とも言える。 「馬鹿にしない義務」というのを法律に書いたら日本もおしまいです。 だから、「ええ、そうですけど、それがどうかしましたか」とも言いたくないんですよね、私は。 そういう所がガスッとしていて嫌らしいんですよ、「馬鹿にするな」というフレーズは。 私の場合、他の追随を許さないぐらい優れた事を言うと、その事に反応して「馬鹿にするな」と言って来る物が多い。 武勇伝みたいな自慢話も一切無し、良い事を言ったりしたりしたら、それが馬鹿にした事に成る、みたいなおかしな反応なんです。 中村誠さんのケースも、それが本質だろう。 つまり、良い意味で、こんな事が出来たら誰でも他の人を馬鹿にするだろうなあ、と思われるような事をすると、それを根拠に、お前は馬鹿にしている、馬鹿にしてはいけない、したがってお前を処罰する、という風につなげてくるのである。 これでは、良い行いは悪い行ないである、と言ってる様な物だから、屁理屈なんですよ。 自分より優れた人に自分より優れた分だけ「お前は悪いんだ」という曲解をこじつけ、実害まで及ぼす、そういう屁理屈なんですよ。 |
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最終編集2024年12月02日 | ||||||||||
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