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2024年11月12日(火曜日)
言われた人の名誉を利するウソも名誉毀損である

とりあえずページ設置のみ。

言われた人の名誉を利するウソも名誉毀損である。
この考えが、現行の法規には掛けている。
現行の法規では、言われた人の名誉を害するウソは名誉毀損だが、言われた人の名誉を利するウソへの一般的な制限は無い。

しかし例えば、現在、お笑いタレントの松本仁志さんなどが、性犯罪の嫌疑を掛けられているが、松本仁さんの事をあまり良く知りもしない人が、こう言っとけば当たり障り無いという考えで「松本仁志さんはとても道徳的な人です、私はその事を良く知っています」と証言したなら、どうなるでしょうか。
そういう話なんです。

私は過去に特定の他者をどう思うか質問されて、ものすごく負の評価を答えた事が有りますが、その背景には、私のそういう考えが有りました。
それなのに、あなたは何故そんな事を言うのか、それでも人間か、みたいな事を言われ、大変心外です。

また、逆に、不正直に褒めた事も有り、それを私は後悔しています。
何年か前、日本物理学会の大会に参加した時、日本物理学会の会員さんらしい面識の無い青年男性から、有名な並木雅俊先生をどう思うか質問された事が有ります。
私が空き教室の椅子に座っていると、その青年男性が到来して私の脇に立ったまま私に質問した、と記憶している。
その青年男性は、並木雅俊先生に問題が有ると思いませんか、という意味で私に質問した様に私は感じた。
並木雅俊先生には問題が有ると思います、という証言を集めようとしていたのだと思う。
正直に言うと私も、並木雅俊先生は単に好きじゃないというのを超えて、何らかの逸脱が並木雅俊先生には見られる、それを問題だと思っていました。
今でもす思っています。
出来れば、何れかのセッション中の何れかの講演の質疑応答時間に、正当な質疑応答をする事によって正々堂々と並木雅俊先生をやっつけてしまおう、と私は常日頃から心掛けていた所です。
質疑応答時間にそういう発言をしようとした事も私には何度か有るけれど、その時自分が言おうとしていた事はイマイチ決め手に欠ける、と思い私は1回も発言しませんでした。
それは、並木雅俊先生が防御性能の高い話し方をしていたからでもあります。
その点も私は快く思っていません。
私は内心ではそういう風に思っていたわけですが、私に質問した青年男性に私は「並木雅俊先生は善い先生だ」という意味の返答を、「包容力」という言葉を使って、してしまいました。
その返答を、ここで取り消します。
「包容力」って、全く何も無い所から出て来た言葉ではないんだけど、多分並木先生の声質とか語調や文体や物腰などの表面的な上っ面の特徴から私は「包容力」という言葉を連想したのだと思います。
よくよく考えてみると、並木先生の本質を「包容力」だとは自分は思ってないなあ、と気付きます。
決め手に欠けると書いた通り、どこがどうだという説明としては、「これが正解だ」と確信できる答えに私はまだ至っていませんが、次の様な事を私は思っています。
並木雅俊先生には、言い訳を使って他人の能力や業績を出来るだけ低く見積もろうとする所が有る。
この種類の人がこれ以上高く評価されてはいけない、というノルマをこなすかの様な態度が見られ、その中には、誰なら評価されてもよいが誰はいけないといったエコヒイキ、不公平に従う不正直と、本来は測定対象に忠実であるべき評価という測定値を予定上限内に収めなければいけないと考えているための不正直の2つが見られる。
並木先生を同じセッションで私が見るのは、物理教育会場でですが、例えば、こんな事が有りました。
若い女性発表者が教育について何か発表しました。
すると、その発表の質疑応答時間に並木先生(座長)は、ほがらかな笑顔でその発表内容を肯定的に評価する中で「良い先生のゼミでは既にみなそうやっています」という意味の言葉をチャッカリ入れた。
その発表内容が色々な所で既に行われている事なのか、それとも、まだ誰もやっていない事なのか、私には確認のしようが無いので、私は黙っていた。
どの様な発表も、ありとあらゆる事実や有効な論法を駆使して可能な限り「そんな事は新しく無い」と言われる試練を受けねば成りません、それが学問の正義ですが、並木先生はその試練を与える業務を誠実にやってないんじゃないか、と私は疑っています。
そういう並木先生の態度を批判すると、その批判は、どの様な発表もありとあらゆる事実や有効な論法を駆使して可能な限り「そんな事は新しく無い」と言われる試練を受けねば成らない、という正義への反対だ、あなた分かってないなあ、という風に持って行かれる危険が有る。
そういう意味で、誤解されない様に批判するには、言葉の工夫が必要です。
そこが、並木先生の発言のガスライティング的に防御性能が高い所で、そういう所が私に「誤魔化してる」印象を与える。

私も、女にはこれは出来ないだろう、とか、女だから無理だろう、という考え方ならします。
しかし、出来てしまったものを「女だから出来てない」と言ったり、「女なのに出来そうだからお前にはさせない」と言う様な事は、私には有りません。
ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の実力主義というものをいけないものだとする意見は、そういう意味で理解不能です。
並木雅俊先生には、そういう所が有る様に感じています。
私の発表に対しても、そういう物を感じています。
私の場合、同世代の友人の私に対する態度の中に、そういう成分が確固として含まれていて、並木先生の態度は、私が置かれているそういう環境の一部だと認識されています。
今度は並木先生という形で同じ物が出来て来たな、またこれが来たな、という風にです。

並木雅俊先生からは「お前は黙っとれ」みたいな印象を受ける。
これに関しては、具体的に次の様な事実が有る。
・ 政治家の高村正彦さんがテレビ出演中にカメラに向かって行なった事が有る掌でテレビカメラを突く様なジェスチャー(本人はそんなつもりは無かったかもしれないが)を、並木雅俊先生は日本物理学会大会の会場で前の方の席に座っている私に向かって壇上からした事が有る。
・ 「大学に行かなければ学問をしてはいけないという考えは間違っている」という発言だったか、日本物理学会大会で私が発表中にした発言を、聴講席で聞いて並木先生は「プッ」という発声で反発の意を表した。
・ 並木雅俊先生と懇意らしく見えた勝木渥先生が、私の発表の質疑応答時間に「発表する権利は会員全員に有るけれど云々」という小言を言った。
・ 並木雅俊先生や勝木渥先生とは無関係に見える新垣恒道という人から、遠回しに発表するなという意味の話を聞かされた(最初の20年間は発表しないものだと言われたり、空き時間にポスターセッションに連れて行かれたりした)。
・ 私の発表への会場での他の先生の反応の中にも、おかしな傾向が見られた。
慣性力についての発表での盲学校か聾学校か何かの先生の反応や、大学での保存則についての発表での「良いんじゃないでしょうか」という反応。
・ 極めつけは、2005年春季大会での座長、齋藤嘉夫さんの態度だった。2019年秋季大会の座長の態度は、それが再来したかの様だった。
・ 日本物理学会大会の物理教育会場でのあるセッションで、質疑応答時間に私が発言すると座長が私に所属と名前を質問し、他の先生が「有名な宇田先生です」と答えてくれた事があったが、その時の座長の質問に私は「どうして、あなたが発言するんだ?」というニュアンスを感じた。「お前は誰だ?」というのは、これはインターネット掲示板で私を利する書き込みをした人が他の投稿者から言われていた言葉です。学会大会の質疑応答時間に発言する権利は、日本物理学会会員でなくても参加登録して参加していれば、誰にでも有るんじゃなかったっけ。
・ 2024年11月18日23時30分からNHKで放送された時論公論で「ハラスメント防止条例制定 相次ぐ背景は?」というタイトルで、同種の問題が論じられていました。

「取り消す」という言葉が頭に浮かびます。
いつどこで誰が何をした、という事実は、取り消しの対象には成らない、約束じゃないんだから。
それを取り消そうとする人が居るのかなあ、と私は日頃から感じています。
山本幹雄という私の旧友は、私の部屋に遊びに来て、直前に私が発表したアイデアを、それに言及する事なく、他所でこんな話を聞いたんだけど、という風に切り出して来る事が多かった。
これは、私が誰より先にそのアイデアを考え出して発表した、という事実を取り消しに来ていたようだ、と私には認識されています。
私がウェブで何か発表する度に、山本幹雄がマメにそれを取り消しに来た、という風にです。
だから、私は「取り消す」という言葉に、もんすごく負の印象を持っています。
例えば、三橋貴明さんの「・・・を~までに取り消さなければ・・・」という発言をウェブで見た時も、一体何の事を言ってるんだろうか、この人はどういう考えの人なんだろうか、と心配に成りました。
私(宇田雄一)という人間自体も、取り消さなければいけないものと考えている人が居るんじゃないだろうか。

有能か無能かと言えば、並木雅俊先生は非常に有能な先生だろうと思う。
国際物理オリンピックに参加する高校生の指導を他の人でも出るのか、と言われれば、まあ、そりゃあねえ、もっと適任な人が居るわけではないのかもしれない。
また、並木雅俊先生の悪いところも、大抵の高校生は、物理オリンピックに参加する様な非常に優秀な高校生でも、最初から最後まで見ずに済むだろうと思う。
けれど、そういう悪い所が出て来そうな気配というのは高校生も感じるのではないか。
それを見て育った高校生が、そういう人に成ってしまわないか心配です。

常に自分を厳しく律しておかないと、ついつい、自分の正直な評価よりも高い評価を答えてしまう。
褒める方が楽だからです。
何でも褒めておけば、当たり障りが無いだけでなく、自分で自分を善い人だと錯覚して良い気分に成れる。
わたしは、他人を褒めたとき、自分の身体内に何かのホルモンが分泌されている様に感じる、胸や目頭が熱くなる様に感じるのだったかもしれない。
他人を褒めるのは善い人に成りたいからだ。
有名な池田大作さんは「他人の悪口を言う人は心が貧しい人だ」と言ったという話をYouTubeで見ましたが、これは私の言ってる事と正反対です。
それなのに、「他人の悪口を言う人は心が貧しい人だ」と言われれば、上手に反論するのは難しい。
これが、ガスライティング的に防御性能が高い、という事なのです。
池田大作さんは悪意でそんな事を言っていたのだと思う。

不正直に他人を褒める事は、賄賂であったり、他者を褒めている自分を美しいと感じるナルシシズムである。

どこかのページに私は、プーチン大統領の少年時代の写真を見て、この人問題あるんじゃないかと思った、という事を書いたが、どのページだったか分からなく成っている。
これも、欠点を感じたらその事を正直に言った方が良い例です。

被害者以外の全員をほめる事によって被害者1人をけなす事なくけなす、というのは、集団ストーカーの手口のひとつです。

ユダヤ人は頭が良いんだ、というのも人種差別発言(人種差別思想)である。





記入
最終編集2024年11月19日