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2023年07月06日(木曜日)
正道空手石井和義はホントに小島一志の言う通りなのか

小島一志、小島大志共著「芦原英幸正伝」から該当箇所を拾ってみた。
p94 山田の話を要約するならば以下のようになる。
・・・さらにそのクーデターには膨大な資金が動き、・・・
それ故、これらの潤沢な資金と「影響力の大きい人々・組織の力」が最大の原動力となって、・・・
p95 ・・・だいぶ金がかかってるんじゃないかな。それに選手や指導員を引き抜くのに億単位の金が動いてるとも聞いてるよ。
・・・彼はもちろん極真の経験なんてないしキックしか知らないはずなんだ。それなのに、いつの間にか北海道で正道の支部長やってるみたいよ。
1982年10月、第1回全日本選手権を、・・・なんか胡散臭いところも満載だったけどな。
p96 ・・・危ないお金とか、いろんな力が絡んでいるに違いないぜ
石井っていう人、・・・芦原道場の支部長っていうのオカシいよね、芦原道場が大阪の難波にあったのは知ってるけど、そこを支部とは芦原さん言ったことないし、そんなことどこにも書かれていない。なんでこんな無名の人が自分よりずっと格上だった中山猛夫や伊藤浩久、前田らの上に立てるのか、それだけでどうも胡散臭さを感じてしまうんだよ
・・・知ってはならない大きな闇が存在するように思えてならなかった。
p97 噂では裏社会が関与して韓国のブラックマネーが大量に流れ込んだとか、得体の知れない宗教団体が絡んでいるとか、・・・
・・・とんでもないお金と、とんでもない力が動いたっていうのは、誰が見ても分かるじゃん。そんでそのリーダーが、つい二年前まで誰も知らなかった石井和義だっていうのも納得できる話じゃないよね。
p101 そして、冷静を装いながら石井は言った。「・・・大阪の支部も神戸の支部も実質的には僕が作ったようなものであり、一指導員として、また支部長として後輩たちの面倒をなんとかして見なければならないと考えました。・・・」
p103 石井の先輩格にあたる前田比良聖は本書の取材にこう答えた。「・・・当時石井さんが空手部や同好会の大学生たちに慕われていたのは事実です」
石井は選手としての実績は皆無であり、・・・ただ、後輩に対する面倒見の良さや指導の上手さにおいて定評があったことは否定できない。だからこそ、各大学の同好会をまとめることができたし、少なからぬ後輩たちが彼を慕っていたのもまた事実と言える。
p108 話の突破口を開いたのは、当時の高知支部長だった三好一男である。彼は正道会館が開催する全日本選手権が、度を超えた極真のコピーであると発言した。・・・大山に向かって力説する三好に、多くの若手支部長が賛意を表した。
p111 清川(哲夫)は続けた。「・・・石井さんは大阪を中心に関西で指導員をしたり、芦原館長が来ると鞄持ちをしたりマネージャーみたいなことをしていたんですが、・・・」
石井さん一人であれだけ大きな正道会館を作れるはずないんですよね。
p113 そんな彼女(番場葉子)が「芦原門下生クーデター騒動」の話になると、血相を変えて正道会館に対する不満を口にした。・・・「・・・石井なんていう人は芦原先生の鞄持ちをやっとっただけの人やん。石井さんが大阪道場の支部長でも師範代でもあったことは一度もないと、はっきり言えるわ。・・・」
・・・前田(比良聖)はこう述べている。「芦原師範のもとを離れて以降、石井さんはメディアに対して芦原門下の大阪支部長、または大阪の師範代、大阪支部を設立したと語っていますが、それらは全て事実ではありません。・・・石井さんは芦原道場の職員でしたが、支部長でもなければ師範代だったこともありません。」
p115 正道会館に移籍すれば、現在初段でも四段位、または五段位の認可を与える。支部長準備金、または支度金として百万円を与える。それが石井の条件であり、もし断れば道場運営ができないようにする、具体的に伊藤は大阪湾に沈めると言われたと語った。
p116, 117 ところで、この石井のヤクザめいた発言だが、後年私の部下がK-1の取材で石井のもとを訪ねた時、彼は開口一番「K-1を悪く書いたら東京湾に沈めたるで」と語っている(石井の言葉はしっかりとテープに録音している)。また、私に対しても、石井は突然電話をかけてきて「なめたことしとると、今から若いもん五、六人送るぞ。何するか分からん奴らや」と脅し文句を吐いた(これも録音テープが残っている)。
石井がこのような威嚇・脅迫とも言える言動を常に口にしていたのは多くの関係者が語っており、伊藤への脅しもあながち伊藤の言い訳とは受け取れないだろう。
この石井の口癖について、佐竹が『まっすぐに蹴る』のなかで触れているので紹介しておく。
《雑誌などに批判的なことを書かれると、その記事を書いたライターを呼び出して「ぶっ殺すぞ」なんて言っていました。・・・》
93ページから始まる「第三章 反逆」という章に正道会館の石井館長の悪口が多く見られる。
悪口だからいけないとか、ホントの事であっても言葉が過ぎるからいけない、という評価を私はしないが、内容が深刻なので、ホントの事なんだろうかと半信半疑に思う。

一方では、山田雅稔著「極真空手50年の全技術」に正道空手の技術について以下の記述が見られる。
p14 極真の技術は、ムエタイやボクシングなど、他の競技や団体との交流を持つことで発展してきた過去がある。
そうした流れで記憶に残っている出来事が、1990年の第7回全日本ウェイト制大会に正道会館の選手たちが多数参戦してきたことだった。
私はそこで初めて正道会館の選手の試合を見たのだが、極真の選手が外から突いていたのに対して、正道の選手は内側から絞ってカウンターを合わせたり、また相手の身体の弱い部分や、呼吸し終わった瞬間を正確に狙ったり、と当時としては新しく、緻密な技術を駆使していたことが強く印象に残っている。
今日の試合技術を見てみると、彼らが見せた突きの緻密な技術が、極真に大きな影響を与えていることは間違いないだろう。
p154 1990年の第7回全日本ウェイト制大会に参戦した正道会館の選手の「受け返し」も目を引くものがあった。
思い切り攻撃を繰り出す極真の選手に対して、コンパクトにきっちり受けて突きや下段廻し蹴りを返す組手をしていたことが印象に残っている。
後川聡之選手や玉城厚志選手、角田信朗選手(第7回全日本ウェイト制大会重量級第4位)など当時の正道会館の選手は受け返しだけでなく、相手の呼吸を読んで強い下突きで攻撃するなど、当時の極真の選手とは異質の組手をしていた。
芦原空手の二宮城光選手の事は別記されているので、正道空手についてのこれらの記述は、芦原空手にはない正道空手の特徴だったと考えられる。

YouTube動画で、「私はサバキの空手も勉強しましたが、間合いが詰まって来るとサバキが使えない。サバキが使えないそういう状況での対処法もうちではやっている」という意味の事を石井館長が言っているのを見た。
空手の技術について芦原空手に納得し切れなく成って正道空手を興したのだろう。
「正道」という名称も、その事を感じさせる。
小島一志氏は周辺事情を挙げて、正道会館の空手が亜流である事を臭わせているが、私はそうは思っていない。