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2019年11月05日(火曜日)
真の巨悪の犯人集団は本当に強いのか

真の巨悪の犯人集団は、自分達の目的や目的達成の為の行為、を揉み消す。
それも、ただ揉み消すだけではなく、入念に徹底的に揉み消す。
知られたらおしまい、とばかりにだ。

おかしいではないか。
何者も抗う事が出来ない程に強いのなら、何も隠す必要は無いはずだ。
しかし実際には隠している。

これは、犯人が自分のナルシシズムを傷付けたくないからでもあるが、知られてしまったら撲滅されるから、というのが主たる理由だろう。

であるならば、真の巨悪の犯人団体は、その行動方針と行動実態を知られたら最後、潰されてしまう、弱い異端者集団だ、という事に成る。

私の父(宇田靖)が、私に質問されたか何かで、うっかり口を滑らせて本当の事を言いそうに成った時、すんでの所で言うのを思い止まって、その代わりに「言ったら批判されるから言うな、と言われている」と言った事が有る。
宇田靖は、これが致命的である事にすら、気付いていないのではないか。

ほう、そうなのか、批判されただけで潰れるのか、随分と弱いじゃないか。
それに、討論すると勝ち目が無い事も分かってる様じゃないか。
これは、ほとんど、犯人には罪の意識が有る事、犯人は確信犯ではなく悪いと分かって居ながら犯行している事、の証拠だ。

考えてみれば、犯人が自分のナルシシズムを傷付けないのは不可能だ。
揉み消しという物は、外部者に対しての物であって、内部者に対しては行なえないからだ。
実のところ、ナルシシズムが修復不能な形で傷付いてしまった者の中から犯人が出る。

概略としてはそうだが、細かく言うと、犯人集団が公式の正義観に代わるもっと正しい正義観を持っているわけではない事なら、それを犯人集団は内部者に対して出来るだけ隠し通そうとする。

「大人」とか「常識」とか「丸く成る」とか「協調性」とか「なめてるのか」とか「遊びでやってるんじゃない」という言葉を乱用しての詭弁や、老尊若卑の思想、自由競争に弱肉強食というレッテルを貼る事、それから、弱きを助け強きを挫く事の称揚などは、公式の正義観に代わるもっと正しい正義観が有ると下級犯人に誤解させる為のフェイクだ。

この事は、しかし、本当の事を知られてしまったら潰されてしまう、という見積もりに修正を加える物ではない。
なぜなら、内部者に本当の事を隠す必要が有るのは、そうしなければ内部者の人数が大幅に減るからだ。
人数が大幅に減ったのでは力が弱く成って潰される、という計算だ。
つまり、やはり、本当の事を知られてしまったら潰されるのだ。

真の巨悪の犯人団体は、加入者を増やす為に、公式の正義観に代わるもっと正しい正義観が無いのに有るかの様に見せかけるだけではなく、自分達が社会でありそれに敵対してもあなたに勝ち目は無いと思い込ませる。

元本は、弱い異端者集団だった物が、このフェイクと脅しによって加入者を増やせば、本当に強く成ってしまう。
マネーのインチキと似た臭いがする。
それは、当然そうだよ、運営者が同じなんだもん。

脅しの連鎖によって強大化したというメカニズムだけだったら、十分に強く成ったら正義観を持っていない事については開き直るかもしれない。
それまでに止めなければいけない。

さて、しかし、犯人の存在範囲は既に非常に広い。
それを示唆する例を以下に挙げる。

(1) テレビ・ドラマの内容コードが歪められている。

例えば「寂しい人ね、誰も信じられなく成ったのね」という台詞。
被害者がどうして誰も信じられなくなったのかを知らずして、これを蔑みの言葉として主役側の登場人物が言う。
被害者が誰も信じられなくなる程の不誠実を、大勢の人が寄ってたかって被害者にしておきながら、その非は全く咎めず、その上、信用されないという犯人の不名誉をも被害者に転嫁して拭おうとしている。
誰も信じられなく成ったのが一律被害者のせいだとされるなら、誰も信じられなく成った事によって今後生じる不利益も全て被害者のせいだ、という事に成ってしまう。
そんなの構うもんか、という態度を主役側の登場人物が取っているのだ。
犯人がどんなに多くても悪いのは犯人です。
それなのに、「寂しい人ね、誰も信じられなく成ったのね」という台詞は、大勢と1人が対立していれば悪いのは常に1人の方だ、私は常に大勢に味方します、と表現しています。

「世の中には、あなたよりもっと辛い目に遭っても文句を言わない人が居るのだから、あなたも文句を言うな」という台詞。
これを叱咤激励の言葉として主役側の登場人物が言う。
視聴者への教句としても言ってる、でしょう。
それでは不条理は無くならない。
不条理は無くされねばならない、との道理が曲げられている。

(2) 曲がった文句をマスコミが連呼。

「人は1人では生きて行けない」というフレーズ。
1人で生きて行ける人が居るか居ないか、それは良く調べてみないと分からない事だ。
現代社会では誰とも取引をしないで生きて行ける人は皆無に近いだろう。
しかし逆に、世界に1人しか居なければ貧しいけれど数十年だけ生きて行けるだろうから、生きて行けないのは他に人が居るから、つまり1人じゃないから生きて行けないのだ。
他に人が居る分だけ生きて行けなくされているのだから、その分だけ取引に応じてもらう権利が有る。
その権利を活用して出来るだけ1人で生きて行く事を「1人で生きて行く」と言うのだ、と考えるなら、1人で生きて行く事は本来ほとんどの人に可能であるはずだ。
それを「出来ません」と言っているのではないか、と思えて成らない。
本来出来るはずの事が出来なくされている、そういう事だろう。
フリーランスの人が会社との取引で会社から不当な損害を受ける、という事情を新聞で見た。
フリーランスでは生きて行けない様にされている、という事だ。

「なめたらあっかーんー」
うるさい。
なめたらあかんのは、なめる事によってミスを犯したり他者の権利を不当に侵害する事、を通してのみ。
価値判断としてなめるのは全く自由です。
なめる事によって正当な行為での実力発揮が促進される場合には逆に、なめる事は推奨される態度です。
したがって、なめられた事に対して実害を与える報復は全て不当です。

(3) 精神科医療を名目とした凶悪犯罪が社会制度に組み込まれている。

アメリカ合衆国に、潔癖症と診断された人にガンマ・ナイフ手術を受ける事を強制出来る、という法律が数年前まで有った。
今まだ有るかは知らない。
不正の被害を受けた人がそれを立証しても、不正が些細だから、という理由で、加害者を有罪にする事が出来ないに留まらず、逆に被害者がガンマ・ナイフ手術という残虐行為を受ける事を強制される、そういう悪用をする為の法律だとしか言い様が無い。
これでは、不正を告発すると痛い目に遭わすぞ、と言ってるのと同じだ。
ガンマ・ナイフ手術の前身は、ロボトミー手術という残酷な野蛮行為だ。

(4) 精神医学の融通。

「思春期」や「反抗期」という言葉は、その時期の子供の言動を、子供は大目に見てもらえる、大人は異常ではあると認めてもらえる、という形で、我慢できる内容に成っている。
これは、しかし、本当は異常ではなく、子供は健康な発達を不断に続けているのに、それにケチを付けて大人の機嫌を取る言葉だ。
「思春期は精神の危機」だと良く言われるが、これも、思春期は精神病院に強制入院させられる危険が大きい時期である事、を遠回しに言った物だろう。
思春期は異性との交際が始まる時期であり、異性との交際は真の巨悪の取り締まり対象だ。
しかし、思春期の少年は、まだ真の巨悪に組み込まれていないので、真の巨悪の意向に反する。
だから、思春期には冤病で精神病院に強制入院させられる危険が大きい。
けれど、それをそのまま言うわけには行かないので、「思春期は精神の危機」という曲がった言い方に成るわけだ。
異性との交際だけではなく、進路選択もかな。
少年諸君は、気を付けろよ。
精神医学が真の巨悪の犯人の御機嫌取りをする御世辞を言う例としては、最近では発達障害、その前は統合失調症、妄想。
これらは単なるエコヒイキな御世辞ではなく、強制入院や服薬強制による心身鈍化強制という暴力を伴うので、名誉毀損では済まない。
被害者に騒音を浴びせて被害者に苦情を言わせ、その苦情に聴覚過敏だ被害妄想だと難癖を付け、精神病院に強制入院させる事を狙う、この手口は私の身辺で目下熾烈に進行中です。
騒音の代わりに、他の嫌がらせも用いられます。

(5) マネー経済を使って被害者に一生を無駄使いさせる犯罪の法的インフラ。

改憲反対論者によって公権力への制限であるはずだと言われる日本国憲法に国民の義務として勤労の義務と納税の義務が置かれている。
憲法という物は権力を制限する為の物だから改憲で憲法に国民の義務を追加するのは間違いだ、と改憲反対論者は言う。

(6) 公務員の変質や、公職への犯人の送り込み。

グリコ森永事件の犯人が「我々には警察内部にも協力者が居るんだぞ」と言っていた。

網羅は全然出来てないはずですが、書かないよりはマシ。
大分伝わったんじゃあないかなあ。
背筋が引きつるぐらい広範囲に犯人が存在しているけれど、これでも人類全体から見れば圧倒的に劣勢なのだと思う。