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2019年08月18日(日曜日)
防犯は守られた人への恩ではなく犯罪者の尻拭いだ(相対正義論の話の続き)

このページに書く事は、どこか他のページに既に書いた事だと思うが、そのページが時間が経つに従がってどんどん人目に触れ難く成って行くので、上階層に置かれているページで引用する必要が有る、と思っています。
このページも、上階層に置かれているページで引用する為に書きます。

また、過去の説明では私の見解が読者に十分に伝わらないのではないかと思ったので、このページでは過去に無い詳しい説明を試みます。

このページで私が説明するのは、犯罪から市民を守る警察の仕事や外国による侵略から国民を守る国防軍の仕事は、守られる人への恩恵ではなく、犯罪者や侵略者の尻拭いであり、守られる人はそれらに感謝する必要も支払う必要も無く、犯罪者や侵略者がそれらに謝罪したり損害賠償したりする義務を負うのみであるのが本来だ、という私の考えです。

この様な考え方は、身を呈して自分を守ってくれた人に対して恩知らずではないだろうか、と私自身も思うし、出来るだけ感謝や謝罪はしたくないという私の欲望にとって好都合であり、少なくともこれまでの常識とは異なっている。
これまでの常識では、不正の害から誰かを守る事は守られた誰かへの与益(利益の提供)であり、守られた人は守った人に御礼(支払いや感謝)をするのが道理である、とされて来た。

そうではあるが、私の考えが正しいか間違っているかは、それ自体として吟味すべき問題であり、私の考えを、謝意を欠いていて好ましくないとか、警察や国防軍の経済的基盤を脅かしそうだという理由で、間違っていると評価するのは、思想の正誤を判定する手順としては不正です。

そして、もし私の考えの方が正しいという事に成ると、今度は逆に今までの常識は大きな弊害を生んで来ただろう事が容易に推測されるし、私の考え方を使えばその弊害を無くせるだろうと見込めます。

その様な弊害は実際に存在している、と私は考えます。
存在しているどころか巨大規模の不正を大域的に通用させる為の手段として積極的に活用されている、そして、その為に私の考え方とは正反対の間違った考え方が常識として全ての人にシレッと刷り込まれているのだ、と思います。
思想インフラが不正に反転させられている、という大規模さの為に、幾ら木を見ても森を見ない限りは、その不正に誰も気付かない、というカラクリです。
これは、現行の通貨紙幣の原理が不正であるという指摘に匹敵する指摘として、陰謀論に属するでしょう。

さて、論理的な説明をする前に、大体のイメージをつかんでもらうために、まず私の考え方を象徴する概念図を見てもらう事にしました。

図1
図2
青色のエリアは正義への違反が無い状態です。
赤色のエリアは正義への違反とか違反をしようとする意志や試みです。
灰色のエリアは、侵略に対する防衛や防犯であり、警察や国防軍に相当します。
図1は今までの常識を表しており、図1においては灰色エリアは青色エリアの皮膚として青色エリアに所属します。
図2は私の考え方を表しており、図2においては灰色エリアは赤色エリアの蓋(ふた)として赤色エリアに所属します。
従がって、図1では赤色エリアに対処しているのは青色エリアですが、図2では赤色エリアに対処しているのは赤色エリア自身です。
図1では赤色エリアを親切にも青色エリアが解決してあげていますが、図2では青色エリアは赤色エリアに自分の事は自分で解決しろと言って突っぱねています。

果たして、どちらが正しいでしょうか。
それを、これから解き明かします。

まず、世界にAという人とBという人の2人だけが存在する場合を考えて見ます。
Aは正義に違反しない様に常に心掛けている、とします。
ある時までAもBも互いに他に対して不当な損害を与えなかったが、ある時Bが悪意を持って故意にAの所有物を壊したとしましょう。
この場合、事後処理として正しいのは、Bが弁償する、という方法であって、Aが壊された物を修復したり再生産したりする、という方法ではありません。
その後の防犯についても、同じ過ちを犯さない義務がBに有るのであって、ドアに鍵を新設する等の義務がAに有るのではありません。
Bがする弁償や再犯自粛に対して、Aは感謝する必要も支払う必要も有りません。
ドアに鍵を新設する必要がAに生じたならば、鍵を購入するのに必要な費用に相当する負担は、AではなくBが負うのが正しい。
それはBのせいだからだ。
Aが青色エリア、Bが赤色エリア、鍵が灰色エリアです。
青色エリアをアメリカ合衆国、赤色エリアをメキシコ、灰色エリアを壁とすれば、トランプ大統領の主張に成ります。
トランプ大統領は私の思想の影響を受けたのだ、と思います。

常識では感謝という物がもてはやされますが私は、感謝も謝罪と同様に無ければ無いほど良い、と考えています。
感謝すべき事、感謝されるべき事が有るのに感謝しないのは良くない事です。
そういう場合に感謝が美徳であるのは確かにそうです。
しかし、感謝すべき事や感謝されるべき事は、無い方が良い。
なぜなら、それらは不釣合いであるが故に感謝すべきされるべきと成るからです。
人Aと人Bの関係において、AがBにして上げた事とBがAにして上げた事が釣り合っていれば、そこに感謝は生じません。
一方が他方を上回っているから「すみませんねえ、本当に有難うございます」という事に成るわけです。
そして、どの取引にもその様な不釣合いが見られないのが理想的な社会です。
謝罪についても同様です。
罪を犯したのに謝罪しないのは不届きです。
しかし、罪は犯さない方が良い。
犯罪の無い社会は社会の理想です。
犯罪の無い社会に謝罪は有りません。
この認識が、ツルンと一発決めたろか、という私の態度を生んでいます。
あなたも、いかがですか、ツルンと一発。

その事を分かってもらった上で、世界に多くの人が居るが正義に対する違反も取引の不釣合いもどこにも存在しない場合を、考えて見ます。
この状態では、誰も誰にも感謝も謝罪もする必要が有りません。
犯罪の被害も無いし、防犯コストもゼロです。
そこに仮想的に犯罪者や侵略者を新規に加入させてみます。
その事によって、元から居た人が誰かに感謝しなくてはいけなくなったり、支払わなければいけなくなったりする事は無いはずです。
元は不具合が無かったのだから、不具合が起こればそれは全て新規加入させられた犯罪者・侵略者のせいだからです。
全ての不具合について、犯罪者・侵略者が謝罪する弁償する、というのが筋であって、それで終わりのはずです。
それなのに、私の考え方以前の常識的な考え方だと、元から居た人のある部分が防犯や防衛を行ない、それ以外の人は防犯や防衛を行なう人に感謝し防犯や防衛に掛かる費用を支払う、という風に成っています。
あれ、おかしいぞ、どこで間違えたんだろう、って事なんです。

間違えたのではなく、そうせざるを得ない、という面も有りますが、正せる部分も有ると思います。
そうせざるを得なくしている事情としては以下が考えられえます。

防犯コストは犯罪の発生より前に生じるが、犯罪する前に犯罪者だと決め付けるわけには行かないから、防犯コストを犯罪者に支払わせる事が出来ない。
まだ戦争が起きていないのに国防軍の維持費を仮想敵国に支払わせる事は出来ない。

犯罪者は自分の犯した罪の大きさに比して支払い能力が過小だ。
私は少年時代のある時ふと、自分の頭に自然に思い浮かぶ様な犯罪は、どれも自分の賠償能力を遥かに超える損害を発生させる、だから出来ない、法定罰が小さい事に甘えるのは間違っている、と気付いた。

しかし、刑法犯が刑罰と教化しか課されないのは何故でしょうか。
それはやむを得ない事でしょうか。
弁償については民事訴訟で別途という事も有るでしょうけれど、殺人犯は被害者に全く弁償しません。
弁償額が最も高額に成るはずの殺人が、被害者が死んでいて訴訟を起こせないから、ただで済む、というのは理不尽です。
また、量的に過小で役に立たないかもしれませんが、警察の運営費用を刑法犯に支払わせる、という発想が無いのも変です。

国家間の戦争においては、敗戦国が侵略国だからという理由で賠償金を支払わされる、という理屈が存在している様です。
侵略国であるか否かは敗戦国なのか戦勝国なのかとは別ですが、侵略国が敗戦した場合には賠償金を支払わされる、という理屈は妥当です。
現代の倫理では奴隷制度という物を頭ごなしに否定しますが、侵略国が敗戦した場合に奴隷にされて賠償させられる、という論理は間違っていません。
現代の倫理でそういう奴隷制度まで否定されるのは、どんな奴隷制度も正義に反するから、ではなく、現代の倫理は寛容さを昔よりも強く求める、と解釈されるべき事でしょう。
侵略者や犯罪者に課される賠償義務が十分に大きく、かつその賠償が実行されるならば灰色エリアは、赤色エリアとの関係だけで心理的にも実利的にも満足し、文字通り赤色エリアの蓋と成って、青色エリアから切り離されます。

それが本来のあるべき姿だ、というのが私の考え方です。
技術的に出来ない、という点については引き続き考えてみたい。
どの生物も外敵から身を守るコストを自前で負担している事は、技術的に出来ない証拠かもしれない。
しかし、寛容でなければいけないからそうはしない、という意見については、次の様な事を思います。

その寛容さにつけ込まれていないか。
また、つけ込ませる為の寛容さではないか。
もし、そうなら、寛容で行こうという方針を変更する必要が有る。

日本人は平和ボケしていて日本では水と安全はただ、という風に外国人から皮肉を言われていた時期が何十年も前に有りましたが、安全はただ、の方が本当は正しいんです。
 

私の、あれ、おかしいぞ、という感覚と本質的に同じ事を言っていた人が高校の先生に居ました。
以下は、その人の発言の概略。

痴漢が出るので注意して下さい、という看板が公道の路側に有るんですが、みなさん、おかしいと思いませんか。
なぜ痴漢をされる側の人が言われなけりゃあいけないんだろうか。
痴漢に対して、痴漢をするな、と書いてあるなら分かる。
痴漢をされる側の人に言うのは筋違いだ。

このページを書くキッカケに成ったのは、満州でソ連兵の性接待をさせられた日本人女性の話を数日前にテレビで見ながら、このページに書いた私の思想の触りを、父に話して聞かせた事です。

その時に私が父に言ったのは、次の様な事です。

犯罪や侵略から守る事を、守る人と守られる人の関係と考えたのでは、守る人と犯罪者・侵略者の関係として閉じさせなければ、守る人と守られる人の関係が、犯罪者・侵略者と守られる人の関係と同じに成ってしまう事、守る人が犯罪・侵略の代行者に成ってしまう事の良い例だ。

守る人は守られる人に会ってはいけない、というルールを置くのが良いのではないか。

以上の事を私は父に言った。
私自身ユニセフの募金を少額しながら、募金する人と募金を受け取る人は会うべきではない、と前々から思っている。
だから、里親制度だったか何か、先進国の人が貧困国の子供の金銭面での親に成る、という制度には批判的です。

私が理想だと考える無謝社会を嫌いだと感じる心は、赤鬼・青鬼型の犯罪の動機に成り易い。