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2019年06月30日(日曜日) | ||||||||||
陰謀と私の関係の実例 | ||||||||||
1955年、森永ヒ素ミルク中毒事件。 西日本を中心として乳幼児に多数の死者、中毒患者を出した。 私は西日本に生まれたが、私が生まれたのは、この事件より10年以上後です。 時期が違うじゃないか? はい、そうです、違いますね。 1968年、カネミ油症事件。 西日本一帯で摂取した人々やその胎児に障害等が発生した。 この時期に私は西日本に幼児として存在していました。 時期、地域、被害を受ける人物のタイプ、全てにおいて一致です。 1986年04月08日、岡田有希子死亡。 直前に自殺未遂が有るので、自殺説の妥当性は高い。 1986年04月26日、チェルノブイリ原子力発電所事故。 この2件は、私が西日本の地方都市から東京に単身移住して大学1年生をやり始めたばかりのタイミングまたはその直前です。 しかし上京後であったのは確実です。 1991年06月03日、雲仙普賢岳火砕流で大規模な人的被害。 タイミング的に不審であるかチェックする為の情報を記憶していませんが、大学の教室内の席に座って机に両肘を突いていた私が他学生から話し掛けられた際にリアクションとして両手で瞬発的開花を模したジェスチャーをしながら口で「ポンッ」という擬態語を発声した、そういう事が有りました。 それは私らしいギャグであり、その頃には既に私は随分とはぶてていたからです。 「はぶてる」というのは機嫌が悪く成っているといったぐらいの意味の方言です。 私は留年しなければ1991年春に大学を卒業する予定でした。 だから1991年06月という時期は、私が予定の年に大学を卒業しない事が確定した時期です。 それが何だ、とあなたは思うかも知れませんが、私が就労せずに大学生をやっている事を快く思っていない連中が居り、その連中にとっては、その上に大学生で居る期間を私が引き延ばす事は、もっと気に入らない事だ、という可能性が考えられます。 日本の激甚自然災害は、この雲仙普賢岳火砕流を皮切りに絶えなくなった、と私は認識しています。 1995年01月17日、阪神淡路大震災。 1995年03月20日、地下鉄サリン事件。 1996年、東京都杉並区の不燃ごみ中継施設「杉並中継所」の公害で杉並病との説あり。 私は1995年01月に住所を関東地方から西日本に有る故郷に戻しました。 これは、1986年春に上京して以来初の事です。 1987年から1992年まで私は東京都杉並区に住んでいました。 地下鉄サリン事件については、その詳細についても不審な点が有るので、説明します。 地下鉄サリン事件の中には、サリンが現東京メトロ日比谷線の秋葉原駅で車両内散布開始され、次の小伝馬町駅で乗客がサリンのパックをプラットホームに蹴り出したがサリンの液体が車両の床に残ったまま運行は継続され八丁堀駅でも運行を終了せず築地駅で運行が打ち切られた、という事件が含まれています。 一方わたしは、1993年03月に行なわれた抽選で公団住宅に当選しました。 結局は公団住宅への入居はしなかったのですが、もし入居していたなら住所は [住所1] 江東区佐賀町1-6-2 [住所2] 江東区大島6-14ほか のいずれかに成ったはずです。 住所1の最寄駅は地下鉄東西線門前仲町駅で、その次に近いのが現東京メトロ日比谷線茅場町駅です。 現東京メトロ日比谷線茅場町駅でも徒歩での通駅は十分に可能な距離です。 私は住所1には下見に行きましたが、たぶん住所2には下見に行きませんでした。 現東京メトロ日比谷線茅場町駅は、小伝馬駅と八丁堀駅の間に存在し、この位置を列車は車内の床にサリンの液体が残ったまま通過しています。 茅場町駅での停車も有ったのではないか。 もし私が公団住宅に入居したとしても、それは1995年ではなく1994年に成ったのではないかと考えられるので、地下鉄サリンは私を抹殺する為だったのではなく、私が行かなかったもしくは去った事を受けての物だった可能性も同時に考えています。 さて、これは間違いない、という件が有ります。 それは、1994年に私が幕張メッセでイヴェント警備の仕事をしていた時の事です。 休憩時間に私は冗談として、多数の異なる警報が同時に鳴るとお手上げですね、というブラックジョークを言い、その時に「同時多発」という言葉を使いました。 おそおらく「同時多発」という言葉が用いられたのは、それが世界史上初でしょう。 そうでなくても、それ以前には同時多発テロは1回も起きていません。 |
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