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2019年06月29日(土曜日)
陰謀論と私

最近の私はYouTubeで陰謀論動画を見る事が多い。

哲学において個々の仮説が「○×説」と呼ばれるべきなのに「○×論」と呼ばれる習慣が有るのと同様に、良く見てみると、陰謀説と呼ばれるべき言説が陰謀論と呼ばれている様だ。
デアゴスティーニの「栄光の日本海軍パーフェクトファイル」第63号16ページでは「真珠湾攻撃の陰謀説」という小見出しが使われており、それを見た私は「分かってるじゃん」と思った。
しかし、陰謀論という言葉はよく目にするが、陰謀説という言葉が使われるのは滅多に見ない。
陰謀論よりも陰謀説の方が言葉として正しい。

ま、それはともかく、私が陰謀説を大量に目にする様に成ったのは最近に成ってからであり、それは陰謀説がデマとして取り締まられ(動画を削除されるなど)始めたのよりも数年後である事から分かる様に、私は常に時代の流れに乗り遅れ気味だ。
ヘイトスピーチを禁止する法律が出来た事も、広い意味では陰謀説を取り締まるのと同一の潮流の中に有る、と私は思う。
ついでの話、何スピーチであろうがスピーチを法律が禁じるなんて世も末だ、と思う。
今では陰謀説は取り締まられる危機の峠を越えた感が有る。

陰謀説の前は、私が議論の高まりに乗り遅れる形で知ったのは、集団ストーカーおよびガスライティングについての情報だった。

犯罪の噂については、私は昔から自分が当事者でなくても平均的な人よりは本当にそういう事が有る(った)確率を高く見積もる性質を持っている。
信じる、というのでは無いけれど、出来ない事が証明されていない、しようと思えば出来る、有り得る、だから、念の為に有るならどうかを考える必要が有る、と判断する人として全く当たり前の分別を私は小児の頃から持っていた。

悪い事が有ったか無かったかで意見が割れる件については、有った場合の方が多い、それが現実だ、というのが私の認識です。
慣用表現で言うなら、火の無い所に煙は立たない、という考え方です。

現実がどうであるかを判断するのに私が使うアルゴリズムが、悪い事は無かったとする言説に対して平均的な人よりも疑り深い、という性質を持っている事もあって、陰謀説動画のコメント欄には私は発表者にかなり好意的なコメントを書きます。

だからそういう私のコメントを受けた人は私が二枚舌を使っていると誤解するかもしれないけれど、当サイト(宇田英才教室サイト)には少し陰謀説に対して冷たい(かに見える)私の意見を書きます。
良く見てみれば他者の動画等のコメント欄に書いた私の意見と当サイトに書く私の意見は矛盾してない事が読者に分かる様に心掛けます。

さて本日わたしが書くのは、以下の1点だけです。

私(宇田雄一)は陰謀の当事者です。
被害者なのか加害者なのか陰謀犯に利用されている道具なのか、私が当事者なのは巷に溢れかえっている陰謀説で言われている陰謀なのか否かすら分かりませんが、私はそんな感じの何かの当事者です。
私が被害者として集団ストーカーの当事者である事は少なくとも確実です。
どの陰謀説提唱者も私(宇田雄一)個人と陰謀との関係にまで辿り着いていませんが、私個人との関係を解明しない限りは陰謀は解明できません。
陰謀組織の脱会者の証言が紹介されているのを見た事が何度も有りますが、たぶん陰謀を解明する鍵としては、そういった陰謀組織の内部告発よりも、私個人と陰謀との関係の方がずっと重要です。

せっかく信用されそうに成っているのに宇宙人の話を持ち出して自ら墓穴を掘る陰謀説提唱者にも似て、私がこんな事を書くと、精神病なんて冤病だという事がせっかく分かってもらえかけているのに、やっぱり精神病・妄想は有ったんだ、と思われてしまうかもしれませんが、しかし本当の事は本当の事、避けては通れません。

また、上に私が書いた事が絶対に正しいとは限らない。