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2014年02月23日(日曜日) | ||||||||||||||||||||
メタ価値(宇田経済学の話の続き) | ||||||||||||||||||||
今日は、今まで当ての価値と呼んで来た物について、論を進めます。 まず、これに「アテ価値」「能力価値」「メタ価値」という名称を、ここで付与します。 それに対して、価値保存則で言う所の益流に対応する価値には「意志価値」「ツモリ価値」という別名を、ここで付与します。
名称については、金銭貸借における用語法を参考に決めました。 返すツモリと返すアテがある、返済の意志と能力がある、という表現がそれです。 意志価値は、各個人の今後生産するツモリである価値の量、によって代表される概念です。 経済全体に蓄えられている価値の総量が大きいためには、この意志価値が大きい事が必要ですが、それだけでは不十分です。 なぜならば、ある人が幾ら大きな志を持っていても、その人にそれを実現する能力が無かったり、周囲の状況がそれを許さなかったりすれば、その価値生産は実現されないからです。 そういった、価値生産の意志が実現される前提条件が、アテ価値です。 したがって、アテ価値は、おおよそ、実現可能な意志価値の上限として規定できるだろう。 アテ価値の変化は、景気の変動、学問の進歩、技術的新発明の登場、社会制度の進歩、物財の普及によって起こる、と考えられる。 アテ価値の増加への生産者の寄与は利潤とは一致しませんが、例えば、携帯電話や自動車を生産して供給している生産者が社会のアテ価値を増加させている事、は間違いないでしょう。 従って、学問上の業績の新規樹立とそれの技術や制度への反映や技術上の新発明の登場だけでなく、旧来のアテ価値に依拠した通常取引も、アテ価値の増加に寄与する場合がある、と考えられます。 しかし、それを量的にどういう風に表すかは、まだ今の私には良く分かりません。 つまり、アテ価値の定量化という問題が、残される。 実現可能な意志価値の上限という定義で定量化完了なのか後日検討したい、と思います。 この問題についての私の元々の問題意識は、価値保存則を確立した際に、通常取引を幾ら繰り返しても経済全体に蓄えられている価値の総和は増加しないのに実際には社会は全体として豊かに成って行っている、という事態からパラドキシカルな印象を受けた事によって、生じました。 もっと遡ると、私の宇田経済学を考え出す動機の一つである、学問の研究は稼ぎに成らないので遊びであり稼いでいる人への冒涜である、という言説への反論の必要性が、挙げられます。 確かに、稼ぐ行為は社会のアテ価値の維持発展を担っていますが、それはアテ価値そのものの発展を目指す学問研究や技術開発に比べれば、副次的な物に過ぎません。 従って、アテ価値の観点から前者が後者を批判する、という態度は、倒錯した間違った態度であり、どこをどう間違えばそんな変な事が言えるのか理解に苦しむし、その分腹も立ちます。 もっとも、その事を盾に取って、私はアテ価値の創造を目指しているので私にはローカル与益なしで受益する権利がある、という態度は、職業研究者等を除いては、怠け者の言い訳への防備の必要から、是認され得ない物ですが、ローカル与益を生活に必要な最小値にして余力を捻出しアテ価値の創造を目指す、という態度は、少なくともアテ価値の創出の見込みがある人については、単に許容されるだけでなく、そうでない態度よりも道徳的にも優れた態度であり、それを防ぐ為にその人にローカル与益の実質上の義務を追加する事は、犯罪の基本形の所で述べたBの態度に該当する犯罪であり、それは、道徳的に劣っているどころか許容されません。 私には、過去に工場の現業労働に従事していた際に、そこでの仕事を実体経済という言葉で表現した事、がありますが、私はその時実体経済という言葉を、資本取引の反対語としてではなく、アテ価値業種の反対語として用いました。 その事が、私が資本取引の反対語として実体経済という言葉を用いた、という風に誤解されたらしいなあ、と後で感じました。 私が資本取引と実体経済が対義である事を知ったのは、つい1ヶ月ほど前の事です。 宇田経済学についての記事のリストは、宇田経済学@持論@学問にあります。 |
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