since 2003
イレコナビ サイトマップ
< 日記 >
< 2013年08月 >
< 31日 >
2013年08月31日(土曜日)
与益ベースか負担ベースか(宇田経済学の話の続き)

受益者が与益者に受益内容に応じた分量の通貨を支払う、という話を、今まではして来た。
私は、これが正しい、と思う。

ではなぜ与益者が受益者から負担内容に応じた分量の通貨を受け取る、という方式ではいけないのか、という話を、今日はしたい。
ここに言う負担とは、苦労とか損の事であって、与益量の事ではない。
与益と負担が食い違い得る事は、時間を割いて努力したがミスを犯したために全く与益できなかった、という状況を思い浮かべると、理解できる。
花瓶の制作をしたが納品前にうっかり床に落として壊してしまった、などの場合である。

そのために、まず、負担ベースで考えるのが正しい場合を考える。
それは、どうしても不可避な負担の合計が決まっていて、工夫によってでは、それをどうする事も出来ない、という場合である。
そういう場合には、与益者が受益者に対して、受益者の負担を減じる、という種類の与益を行った場合には、必然的に与益者の負担はその分だけ増える事に成るので、与益の量は、引き受けた負担の量に等しく、これに相当する量だけ通貨の移動が起こるべきである。

さて、しかし、一般には、負担という物は工夫によって減らせる可能性があるし、また、受益者の負担を同じだけ減じるために与益者がする負担は、与益者の能力によって異なる。
受益者が負担を大きく減じてもらったのに与益者に少ししか報酬を払わない、とか、同じだけ益を受けたのに、相手(与益者)によって支払い額が異なる、というのでは、少ししか報酬をもらえなかった与益者が納得しないので、負担ベースで考えるのは、間違っている。

この様に、前提条件が成り立っていないのに、ゴリ押しで負担ベースの経済を通用させる事は、ある意味、結果の平等であり、先天的にたくさん持っている人は少ししか持っていない人に与える義務がある、先天的に少ししか持っていない人はたくさん持っている人から奪う権利がある、運の良かった人は運の悪かった人に与える義務がある、運の悪かった人は運の良かった人から奪う権利がある、内容の豊かな人の一部分は最初から内容の乏しい人のものである、とする事であり、所有の範囲の妥当性に諸説あろうとも、少なくとも自分自身ぐらいは自分だけのものである、という個人の権利の基本の否定である。
この点が、負担ベース経済の最も深刻な欠点であろう。

どこが結果の平等かと言うと、負担した分だけ通貨を受け取れる、というのは、結果の成否にかかわらずである、という所がだ。
能力の高い人にも、所定の生産結果に達したから先に帰る、という事を許さず、能力の低い人と同じテンションで同じ時間働いてもらい、能力の低い人よりも生産結果をたくさん供出してもらって、賃金も同じ、というのが、負担=テンション×時間が同じなら受け取れる通貨が同じ、という事である。

この方式の間違っている所は、高級な能力の駆使には、単なるテンションという言葉では言い表せない産みの苦しみが伴う、という事を考え落としている点だ。
それは、たとえ一瞬であっても生じる物であって、お前は天才だから楽でいいよな、俺たちが何年もかけて生産する価値を1日でひねり出せるんだから、という批判への反論と成る。
分かり易く言うと、一瞬にして何年分も年を取る、みたいな感覚だ。
この産みの苦しみを無かった事ででもあるかのように扱われる事は、高級な能力を駆使して困難な生産を成し遂げた者にとって到底許せない事である。
まあ、これは、負担が同じでも、という話ではなく、負担は同じではないんだ、という話だが。

負担ベース経済には、これ以外にも、生産者に、生産効率を下げようとする、故意に上げない、負のモチベーションを与える、という欠点がある。
これは、生産過程に故意に回避可能な負担を挿入する、という事であり、実際に存在する例としては、必要の無い残業が、挙げられる。
自動車の前に故意に自分から跳び出して怪我をし、自動車の運転者に損害賠償を請求する「当たり屋」に、広い意味では該当するだろう。

負担ベースの経済は悪である、という定理の最も直接的な帰結は、賃金は労働時間に対して決めるのが正義だ、という正義観の否定だろう。
ただし、労働時間を使用者にとっての使用可能時間と考えれば、労働時間は負担量ではなく与益量を表しているとも考えられるので、もっと考えてみなければ分らない面もある。

負担ベースの経済が間違いで与益ベースの経済が正しい事は、根本的には、必要性という物が苦難の受忍の必要性という形でではなく益の供給の必要性という形で存在している事に、由来するだろう。
代表例としては、食べる必要という物が挙げられる。
この必要性は、食料の供給の必要性という形で存在しているのであって、食料供給に伴う苦難の受忍の必要性という形で存在しているわけではない。
なぜなら、前者は一定不変であるのに対して、後者は状況によって変化する(工夫によって解消される可能性がある)からだ。

技術革新で必要を満たすための労働量が減少すると失業問題が発生する、という問題の根は、ここにあるのではないか。
つまり、この問題は、経済の現行の制度や慣行に含まれている負担ベース部分を与益ベースに置き換えて行く事で、解決できる可能性がある。

本件を書いてみて、負の経済学について
2013年01月23日の記事に書いた事は的外れだったかもしれない、と少し思う様に成った。
害の授受ではなく、取引における納得の不成立に着目する方が当たっているのかもしれない。

宇田経済学@持論@学問