since 2003
イレコナビ サイトマップ
< 日記 >
< 2024年08月 >
< 04日 >
2024年08月04日(日曜日)
ボクシングの性別問題

現在開催中のパリ・オリンピックの女子ボクシング競技で、アルジェリア代表のイマネ・ケリフ選手の男度が高過ぎたために競技の安全性が著しく不足したらしい事が、対戦相手のイタリア代表のアンジェラ・カリニ選手の反応を見て判明した、という意味のニュースをYouTubeで見た。

カリニ選手は、2024年08月01日に66キロ級2回戦のケリフ選手との試合を46秒で棄権し、リング上で膝をついて泣き、ケリフ選手との握手を拒んだ。
開始早々、ケリフ選手の強打が2発、カリニ選手にヒットした。
カリニ選手は棄権の理由について「パンチを受けて鼻に強い痛みを感じ、あれ以上続けられなかった」「2発目を喰らった時に呼吸が出来なく成った」と説明している。
握手を拒んだ事をカリニ選手は後日謝罪した。

大体以上の話が私の耳に入っている。

他にも重量上げなどの種目でも論争が発生している様なので、以下に私の意見を書きます。

宇田雄一の見解:
階級を体重だけで定義するのではなく、体重と男度(または女度)の2つで定義し直すべきだ。
男度は男性ホルモンの量で識別するか、もっと良い方法が有れば、それで識別する。
試合前の計量から試合までの間に大きく変化するパラメータは適さない。

もともと、男性同士の比較でも、男度に違いは有った。
ものすごく女性的な男も居れば、ものすごく男らしい男も居る。
それなのに、男性同士のボクシングの試合では、男度の大きさはボクシングで競おうとしている優秀性の筆頭みたいな項目だ、というのが、これまでの伝統的な価値観・正義観だった、と思う。
つまり、お前と俺とどっちの方が男らしいかボクシングの勝負で明らかにしようじゃないか、という考え方が大きかったと思う。
この部分のルールを見直す、良い機会だ。
因みに、階級は体重だけで分類されているが、リーチはどうなんだ、という意見も有ると思うんだよ。

男の集団の中にも男度の違いは有る、女の集団の中にも女度(=-男度)の違いは有る、という事情は、「ボイッシュ」という言葉を思い出せば、納得されるだろう。
ボイッシュというのは、男性的な女の男性的な様子を指し示す言葉ですよね。
つまり、女には、ボイッシュな人も居るし、そうでない人も居る、というのが常識なわけです。

男は男らしい方が優秀である、という価値観は、おおよそにおいては主流、ある程度までは正しい、と思うが、男度が極端に高い男というのは、人物類型としては、何かしなやかさが欠けていて、魚で言うとシーラカンスみたいな感じに成ってしまうのを、何かの本で見た様に記憶しています。
これは、ボクシングの試合でも弱さを生むのではないでしょうか。
だから、際限なく男らしければ男らしいほど良い、と私は言ってるわけではありません。

階級の概念を体重1次元から体重・男度2次元に改定すると、直接的には階級の個数が激増してしまいます。
しかし、体重と男度の間に換算関係を設定すると、階級の個数は体重だけの場合の階級の個数と同じに出来ます。
現在の階級の個数は全部で (男の階級の個数) + (女の階級の個数) だけ有るが、体重と男度の間に換算関係を設定すると、これが、(男の階級の個数) = (女の階級の個数) に半減します。
体重と男度の間に換算関係を設定するとは、体重が10kg重いのと男度が3ポイント高いのとは階級的には同じである、という風に定める、といった様な事です。
 
これを実現すると例えば、小男(こおとこ)が大女(おおおんな)にぶちのめされる、といった様な光景を見る事が出来る様に成るでしょう。
これは、ボクシング・ルールの進歩だと言えます。

ボクシングのルールを考える時に、価値観や正義観とは、ボクシングは何を競う種目であるべきか、という問題です。
何を競うのが有意味であるかは、価値観の問題です。
何を競うかが決まれば、それ以外の事で勝敗が左右され得るルールは、正義観によって否定されます。
元々は、ボクシングは男度を競う種目でもあったわけです。
つまり、ボクシングで競う項目の中には男度も含まれていた。
そういう価値観や正義観に基づけば、男度が同程度である人同士でなければ対戦してはいけない、というルールは的外れです。
男度の大小関係が最初から分かっていれば、それを明らかにするためにわざわざボクシングの試合をする必要は有りませんが、それでも、してはいけない事は無い。
また、男度の小さい方の人が「オレの方が男度が大きいんだ」と言って譲らなければ、本当にそうなのかどうかをボクシングの試合で確かめる事には意味が有ります。
男度を競うのが目的なら、男度以外の特徴(体重など)を揃える必要が有ります。
昔はボクシングの試合ではフットワークが禁止されていた、と聞きます。
相手のパンチをかわすのは卑怯だ、男らしくない、と考えられていたそうです。
男度以外の特徴を揃える事の中には、技術を競ってはいけないみたいな事が入っていた、という事です。
それとは正反対に、現代では、ボクシングでは技術とパンチ力だけを競いたい、という価値観に変わっているだろう。
アマチュア・ボクシングでは、パンチ力も競いたくない、技術だけを競いたい、という主義に成っているみたいだ。
ボクシングで何を競う事にするか決めるのは自由だから、その決定の如何にかかわらずどういうルールや行為が正義に反するかを言う事は出来ないけれど、ボクシングでは技術だけを競うんだ、と一旦決めたら、男度は揃える項目の方に分類される、と考えられよう。

握手を拒んだ事をカリニ選手が謝罪した事について。
ケリフ選手に悪意が無ければケリフ選手が悪いわけではないけれど、握手を拒んだカリニ選手の態度が間違っているのでもない。
私が自分の相対正義論で言っている、被害の当・不当と加害の当・不当は一致しない、という理屈を考慮する必要が有るからです。
したがって、謝罪は必要ない。
それに加えて私は、謝罪すべきではない、と考えています。
その理由は以下です。
19日@2023年09月@日記で、私の母ウダマチコが私を謝らせようとしている実例が報告されています。
カリニ選手がした謝罪は、誰かに言われての事だと思うが、おそらく、私のこのケースと同じ文脈に成っているだろう。
今回のケリフ選手とカリニ選手の事件も、除去できない形で新しい害の湧き出し口を何者かが置こうとした結果に違いない、と私は見ています。
そういう犯罪の犯人は、加害した上で被害者に謝罪させる、という倒錯した態度を取ります。
加害者が謝罪するのが本当なのに、被害者に謝罪させる、という事です。
カリニ選手が謝罪するに至った背景には、それが有るだろう。
ひょっとすると、第二次世界大戦で戦勝国が敗戦国に東京裁判などを課したのも、それかもしれない。

つい先日、私は父ウダオサムの前で、1980年台にテレビで放送された「意地悪ばあさん」というドラマを非難した。
それが、2024年08月01日のケリフ選手とカリニ選手の試合の直前だったのではないか。
このドラマでは、後に東京都知事にも成った青島幸男という男性が、意地悪ばあさん役を演じた。
YouTubeで見たケリフ選手の様子が、私の頭の中で、意地悪ばあさん役を演じている青島幸男のイメージと重なった。

犯人は善人を困らせようとしているので、上記の私の見解の様な割り切れた正解を直ぐに出される事は、犯人にとって誤算です。
割り切れた正解を出せなければ、どこか納得できない所が残る妥協策で我慢する事に成ります。
完全な正解と妥協策の微妙な違い、これを誰もずっと解消できない様にする、これが除去できない害の湧き出し口を置くという事なのです。
私の見解を見れば分かる様に、完全な正解というのは、ずっと誰も気付けない可能性が大きい物です。
納得できないんだけど、どこがどう間違ってるかを誰も言葉で説明できない、これが、害の湧き出しを除去できない、という事です。
害の湧き出しを除去できないという事は、その害で人類全体が未来永劫嫌がらせを受け続ける、という事です。
今回は、私に直ぐに正解を言われてしまったので、犯人は直ぐに次の問題を出して来るでしょう。
そうやって、解決が問題よりも常に遅れている状態を犯人はキープしようとして来るのです。

今回のボクシング性別問題は、近年の移民問題や、LGBT関連法を強引に整備する動き(これでも女用の便所や浴室に男の身体を持つ人が入る問題が論じられている)と、内容が似ているし、時期的にも同期しています。
これは、これらがキャンペーンの一環として行なわれているからだ、と私は見ています。
「境界破壊キャンペーン」とでも言えば良いか。
集団ストーカー問題を論じる言葉に「ノイズ・キャンペーン」とか「コリジョン・キャンペーン」というのが有る事が思い当たります。
ボクシング性別問題も、近年の移民問題も、LGBT関連法を強引に整備する動きも、集団ストーカーを主催している勢力が起こしているからだろう。
キャンペーンという手法を悪用するという特徴が、犯人の存在範囲を特定している、と私は見ています。

---
2024年08月06日午前06時00分頃、当ページの推敲FTP後、追加の推敲中に私の居室に煙の臭いが届き始めた。
FTPに反応した集団ストーカー工作です。
こういう事が非常に多い。


最終編集2024年09月27日