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2014年08月23日(土曜日)
取引は当事者の合意のみに基づいて成立する(宇田経済学の話の続き)

今日は、窓の向こうがどう成っているか全く分からない
取引窓方式とは別の、相手を見ての取引について考える。

窓の向こうがどう成っているか全く分からない取引窓は、政治の選挙の匿名投票に相当し、差別的不買や差別的不売を出来ない様にする意味を持つ。
そして現行の経済の実際を見て、そういう防犯機能が必要だ、という事も私は実感している。
2013年10月19日の記事に、その事が少し書かれている。

しかし逆に、そういった匿名方式では、買い手が益の内容を、完成品だけを見てその場で判断する必要が有り、前回は粗悪品を売り付けられて損をしたから今回はその売り手からは買わない、という当然の自衛が出来ない。
住宅の手抜き工事の事を考えれば、完成品だけを見て買う瞬間に消費者がその場で判断するのが難しい事が、良く分かる。
外見上は分からない機能上の欠陥が有るかもしれないし、内部まで見ても専門知識が無いから判断できない様な難しい工業製品も多い。

そういう過去の実績が無くても、初交渉時に、何となく怪しい感じがするから買わない、という態度だって許されて当然だし、今までこの人から買って来て何も不都合は無かったから今さら仕入れ先を変えてリスクを冒す事はしない、という判断も合理的で正当だ。

あなたからは買わない、とか、あなたには売らない、という態度は、
斥力が無い場合には、ほとんど全く自由であるはずだ。
売とか買という貨幣経済上の行為に限定せずとも、背景斥力が無い場合には、取引をするかしないか、および取引内容は、当事者が合意すれば正当であり、当事者の中の誰かの意に反して強制されれば不当である。
現行の法制度で言う「契約の自由」とは、この事だろう。
ただし、損させる事を目的にその損の見返りとして与益したり、損の見返りとして受益する事を目的に自損したり、相手に損させる事を目的にその損の見返りとして自損したり、自損の見返りとして相手に損させる事を目的に自損する、というのは禁止されるべき犯罪だ。
また、自給自足に必要な資源を売り払ってしまう、という行為も制限の対象に成り得る。
脅迫によって得た合意も無効だが、これは斥力がゼロではないから、という風に理解されるべき事だろう。

契約の自由は、自衛のためという消極的理由で正当化される、と言うよりは、
自由という物は不必要に制限されてはいけない、という道理と、契約の自由を制限する必要が存在しない、という事実から正当化される、と考える方が本来的だろう。

こうして、契約という物は当事者が合意すれば正当だし当事者の中に合意しない人が居れば不当だ、という事が分かったが、それでは、当事者以外の人が賛成するか反対するかによって契約の正当性は左右されるだろうか?
これが今日の本論だ。

現行の法制度で認められている契約の自由というものは、他の自由と同様に、丁寧に言うと他者からの自由だと言えるだろう。
したがって、当事者以外の人からの干渉に従う義務は当事者には無い、というのが答えだと私は確信する。
今日の記事のタイトルでは、この事を「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し」という日本国憲法の文言に倣って表現した。

セクハラなんかでもそうだが、日頃から私は、性的な事だけが特別扱いされるのは間違いだ、性的な事で言われている事は、大抵は一般原理のレベルでも存在してる事じゃないか、というツッコミを忘れてはいけない、と考える。

まず、無取引自給自足状態から出発して、互いに合意し合った者同士が合意し合った分だけ取引し、その他の人とは全く取引関係が無い、という場合には、無取引自給自足個人への侵略との類似性によって、取引関係が有る部分集団への外部からの干渉の不当性が、理解され易いだろう。

現行の法制度で、契約の自由への侵犯として認識されているかどうかは知らないが、営業妨害という概念が有る。
経済活動の自由への侵犯、という位置付けかもしれない。

お前があいつの商品を買わなかったら俺はお前の商品を買ってやるが、お前があいつの商品を買うなら俺はお前の商品を買わない、という形での第3者の干渉は、それ自体が契約の自由の活用であるかの様な体裁を取っているが、取引の自由への侵犯だと見なされるべきだ。

だったら、という事で黙って、あいつの商品を買う人の商品は買わない、という事を始めても、それは不当な干渉だと見なされるべきだ。
それは、脅迫はダメと言われて、だったらという事で、黙って嫌がらせを始めるの、と同じである。
最近の中国産鶏肉の様に、あいつの商品を買った人から買うと自分があいつの商品を買う破目に陥るから、という事なら話は別だが。

その意味で、暴力団の資金源に成るからアレを買ってはいけない、という主張は、どうやって正当化するのか、という点で深刻な問題を抱えている、と私は思っている。

難しいのは、普通はそうである様に、当事者の中に第3者と取引している人が居る場合だ。
この場合、そういう第3者からの干渉の中には正当な物も有るのか?
経済への制御の正当性の根拠として社会主義者が挙げるのは、この観点だろう。

例えば、AB間の取引に対してCが、Bの生活はCとの取引のおかげで成り立っている、という理由で干渉して来る、という構図だ。
こういう問題については、後で改めて考えてみたい。
2012年02月11日までの記事で、そういった議論が少し為されている。

1990年代に、テレビで街頭世論調査みたいなシーンを見ていて、特定の他人の特定の生き方について、許せるか許せないか、という問いの立て方が、行きずりの人々の会話の中に含まれていたのを聞いて、おや、と思ったのを思い出す。
他人の迷惑に成らなければ何をやってもいい、という意見の是非が争点に成っていた様だった。
この意見に反発して、だったらこれもオッケーだよなと言って自傷行為をしている人々が居るらしい、という印象を受けた。
「許せない」という言葉の意味は何なのか、懸念を覚える。
羨ましい等の感情をオドケて大袈裟に表現した物なのか、それとも、やめさせる必要が有る、という事を本気で言っているのか、が問題だ。
後者だとすれば、それはこのページで説明している道理への不理解であり、そもそも許さない権利なんて誰にも無い、という事を言う必要が有る。

また、職位について、あの人があの職位でよいですか、という問いの立て方が有るらしいのを感じた事が有る。
それも、可哀そうではありませんか、という意味ではなくて、あなたがこんなに低い地位なのにあなたよりくだらないかあなたと同程度のあの人があんな立派な地位である事をあなたは許せますか、という意味の問いだ。
これについても、前項と同じ事が言える。
あの人があの職位で良いか、という打診が妥当するのは、公務員の職位だけだ。
それも、そういう打診が直接行なわれるのは、政治の選挙においてだけであり、その他は、公務員試験で選んで下さい、という形で間接的な要請が行なわれるだけだ。
それが正しい、と思う。

民業の場合は、それで生活できていればその職位で良い、と判断されるのであり、それを否定する事は侵略である。

宇田経済学@持論@学問